パドレディン王子のタルトレット

S.アンリ・ベルトー

1.カレームの晩餐
 その朝、カレームは仕事場にいた。両手で額を支えるような姿勢のまま、深い夢想の中にあった。このところずっとその解決法を熱心に追い求めてきた料理上の難しい諸問題のひとつについて思いをめぐらしていたのである。部屋の扉が開かれた。しかし、その音は没頭している彼の耳には届かなかった。続いて高価なカシミアに身を包みイギリス風のベールで半ば顔を隠した若い女がいきなり部屋に入ってきたが、それにすら気づかなかった。女は興味深げに周囲を見回し、入ったばかりの部屋をすばやく探った。
 仕事場はひとつの大きな部屋になっていて、明りとりの巨大な窓が二つあった。赤いカーテンを通して陽の光が差し込み、無数の不思議な色とりどりの模様を作っていた。右手には膨大な書物が収められた書架。左手にはピアノ。さらに銀の鍋がのった小さな調理用のストーブがあった。
 リゴによるバーテルの肖像画とカンバセレスを描いた素晴らしい銅版画、ロベールによるタレーランの素描。そうした絵画だけが陰気な茶色で覆われた壁の重苦しさを和らげていた。
 部屋の中央をこの著名なメートル・ドテルの書斎が占めていた。カレームのガストロノミー研究に捧げる熱情に較べれば、おそらく天体の運行システムに捧げたニュートンの熱情ですら及ばなかっただろう。部屋の中を歩き回る人の気配にすら気づかせないほどの深い瞑想から引きずりだすために、女は夢想家の肩にそっとその手を置かなければならなかった。
 彼は深い眠りから突然目覚めさせられたようにハッと身を起こした。自分の不注意を詫びると、世事に長けた人間の雰囲気を湛えた気品のある仕草で美しい未知の相手に椅子を勧めた。
 女はベールを上げ、その顔をカレームにさらした。それは、これまであまたの詩人たちが思い描いてきたような繊細で美しい顔立ちだった。いや単に美しいというだけではない。神々しいとすら言えた。
「わたくしをご存知?」奏でるような甘い声で女は尋ねた。
「あなたと知り合うという栄誉に預かる機会が一度でもあれば、マダム、わたしの身も心もそれを忘れることなどありえないでしょう」カレームは軽く会釈しながら答えた。
「嬉しいわ」女は続けた。「高貴な女として初めてお会いする芸術家の方に負い目を感じることはありませんが、それでもわたくしはあなたの謙虚なお言葉を自分の幸運として誇りに思います。ありがとう。ムシュー・カレーム、今日お訪ねしたのはお願いしたいことがあるからなのです」
「あなたがどんなことをお望みになっているのか、わたしはそれを知りたいという欲求を抑えることができません」
「お示しいただいているご親切は本当にうれしく思います。しかし、わたくしは包み隠さず申し上げなければなりません。わたくしがここにやってきてあなたにお願いしたいというのはそう簡単なことではありません。ご存知のように、女というのは向こう見ずで厄介なものですからね」
 カレームは軽く頭を下げ、女が説明を続けるのを待った。
「ムシュー・カレーム、あなたにある友人のためのディナーを準備していただきたいのです」
「わたしの持っているささやかな知識は、進んだ技術を愛する人であれば誰でもご利用いただけるものです」そう答えて彼はメニューを書くためにペンをとった。
「あなたはまだわたくしの申し上げていることがよくお判りではないようです。このディナーに関しては、すべてあなたひとりきりでなさっていただきたいのです」
 カレームはその言葉に真摯で厳粛なものを感じとった。「マダム、ご承知のこととは思いますが、わたしはタレーラン氏にお仕えする身であり、立場上ほかのことにかかりきりになるわけにはまいりません」
 女は優雅なしぐさでショールと帽子をとると、ピアノの前に腰を下ろして弾き語りを始めた。
 これほど純粋で美しい旋律に溢れた歌声を聴いたことがあっただろうか。カレームは激しい胸の高まりを覚え、瞳をうるませながら歌い手の足もとにひざまずくと、魅惑され打ちのめされて思わず口走っていた。
「どんなことでもいたします、すべてあなたの意のままに」
「ありがとう」子どものように嬉しそうに女は言った。「あなたのお言葉は確かに承りました。でも、その前にわたくしはお約束をもっと確かなものにしておきたいのです」
「仰せのとおりにいたします」
「待って」女は続けた。「もう少し念を押させてくださいね。あなたが引き受けたことを後悔なさらないように」彼女は再び歌いはじめた。
 涙がこぼれてカレームの頬を伝わり落ちた。彼は完全にわれを失った。
「それでは、わたくしの希望を申し上げます」有名なメートル・ドテルがその指先でピアノの鍵盤を震わせていた繊細な白い手をとって口づけすると、若い女は弾んだ声でそう言った。
「あなたは三人の招待客のためにできうるかぎりの豪奢で贅沢なディナーをしつらえることになります。誰も、たとえあなたが完全に信頼している人であっても、どんなささいなお手伝いもなさってはいけません。もっともありふれたソースやポタージュですら、あなたがご自分で調理しなければならないのです。ただ、これだけは申し上げておきましょう。あなたは一人の愛好家のためにこれほど価値のある、また、あなたの芸術における創造と技術のすばらしさをこれほど理解してもらえる、そんなお仕事をいままでにされたことはないし、これからも決してされることはないはずです」
「マダム、おっしゃったことは必ず守ります」
「あさっての午後四時ちょうどに、前もって準備されるのに必要なものをすべて引き取りに伺います。その後、馬車がお迎えに参りますので、申し訳ありませんが目隠しをさせていただいて、事情をわきまえたわたくしどもの忠実な使用人が料理の仕上げをしていただく場所まであなたをお連れします。お帰りのときも同じ用心をさせていただくことになります」
「謎めいた趣向はどういうわけです?」カレームは、この冒険のまるで小説のような展開に惹かれて訊いた。
「あなたはわたくしの言うとおりにするとお誓いになりました。言われたとおりになさってください。それでは」
 女はカレームのデスクの上に金の留め具のついたモロッコ革の紙入れを置くと、そそくさと立ち去りかけた。カレームは彼女を引き止め、紙入れから小切手を引き抜くと、有無を言わせぬ重々しい口調で言った。
「これを受け取れとおっしゃるのは、マダム、私の気持ちとして承服いたしかねます。紙入れは、あなたの貴重な思い出としていただいておくことにしましょう。しかし、中身については、よろしければ貧しい芸術家たちに分け与えるなど、あなたのお好きなようになさってください。これがわたしの唯一かつ絶対の条件です」
 女は手を差し伸べると、優れたシェフの手に愛情をこめてその手を重ねた。
「判りました。でも、これだけはお忘れなく。わたくしが誰か、それを知ろうとなさってはなりません。この件についての質問はいっさいお受けできませんし、推測もなさらないでください。わたくしがあなたにお話ししたこと、それがすべてです」
 女は立ち去った。
 それからの二日間というもの、カレームは、魔法の杖で彼に触れた妖精のことを夢想するあまり料理についての深遠な瞑想を忘れてしまっている自分の姿を一度ならず見出して、驚いた。魔法の杖は、19世紀におけるもっとも名の知られたメートル・ドテルを単なる普通の料理人に変えてしまったのだった。あくまでも約束を忠実に守り、疑念を排してフルーツや野菜、狩猟肉、家禽、スパイス、肉を選びわけ,買い揃えることに専念した。 すべての素材に対して理論家としての、また熟練した技能者としての深遠な技が駆使され、少しでも納得がいかない素材は排除された。
 準備が整ったその翌日の午前4時、女の言葉のとおり、黒服の二人の奉公人がやってきてカレームが用意したものを運び出した。それからほどなくして、老齢の従者が手紙を携えて訪れた。手紙には次のような言葉が書かれていた。「馬車と目隠しがあなたをお待ちしております」
 カレームはいささかのためらいもなくメートル・ドテルの装いを整えると、剣を携えて屋敷の門の前に停められた馬車に乗り込んだ。車窓のブラインドは注意深く閉じられていた。その用心にもかかわらず老齢の従者は上質のカシミアのスカーフでカレームの眼を覆うことを怠らなかった。
 馬車は10分ほど走り、停まった。二人の従者がカレームの手をとり、両脇に寄り添って注意深く階段を下りた。階段室を経てさらにいくつもの部屋を通り抜けた。最後に、この冒険の主人公は眼を覆っていた目隠しをとることを許された。
 通されたのは可動式の二つのオーブンが置かれた小さな部屋で、どうやらここで彼は調理作業を完結させることになるようだった。黒人の少年が、カレームの花押が刺繍された白いサテンのエプロンと小さな留め紐のついたつづれ織りのエレガントな帽子を手渡し、あっという間に部屋から立ち去った。大きなオーブンの近くのベルベットのクッションの上には銀製のベルが置かれていた。午後5時ちょうどに、カレームはそのベルを鳴らした。ただちに二人の奉公人が部屋に入ってきてメートル・ドテルの手から調理を終えた数々の皿を受けとった。二人はカレームが料理の給仕法に関して与えた短くも明快な指示を丁重に聞いていた。それからカレームは帽子を脱ぎエプロンをはずして再びコートをまとい、従者たちが彼を馬車で自宅まで送り届けてくれるのを待った。先刻二人の従者によって注意深く閉じられた扉が再び開かれるのにさほど時間はかからなかった。今度も入ってきたのは黒人の少年だった。少年はカレームに前にも使用したことのあるカシミアのスカーフを手渡すと、それで眼を覆うよう身振りで求めた。そして彼の手をとって近くの部屋に導いた。カレームは肘掛け椅子に座らされ、目隠しが外された。“19世紀のフランス料理術”の著者の目の前に、彼が自分で調理したディナーが現われた。彼は上席を占め、両隣にはあの正体不明の美女と、そして詩人が席についていた。
「私のつまらない策略をお許しください」詩人がそう言ってカレームに手を差し伸べた。「この家であなたに十分楽しんでいただきたかったのです。しかしながら、当のカレーム氏に用意していただく以外にどうしたらカレーム氏にふさわしいディナーを差し上げることなどできるでしょうか。そこで、私の敬愛するもっとも優れた歌姫で私に友情をもって接してくれているこの人に協力を仰いだのです」
 カレームは深く心を打たれた。
「芸術家の才能に対して」とカレームは上ずった声でつぶやくように言った。「これほど洗練された心遣いに満ちた賞賛はありません。私はあなたがお示しくださった私への評価の証を決して忘れることはないでしょう」
「私だってあなたのご厚誼を忘れるものですか、カレームさん。依頼人である私が誰か判らないのにこうして私のために来てくださったのですから。正直にお話ししますが、あなたほどの地位も富もお持ちの方が私に協力するためにおいでいただいたというのは、私にとって幸福であり誇りでもあります。タレーラン公のご加護を受けておられるあなたのおかげなのです。私にいささかなりとも幸運と名誉が微笑みかけてくれているとしたら、それはあなたのおかげでなくてなんでしょう? さあ、それよりも目の前のすばらしいディナーが冷めないうちにいただくことにしましょう。あなたのご専門のひとつはグルマンであることだと伺っています。それを証明するのに、これ以上好い機会はありませんよ」
 カレームはその言葉に同意するように微笑むと、テーブルに身を寄せてナプキンを解き、スプーンを手に取った。
 読者諸氏に請合うが、フランス料理の巨匠が自ら料理したものを味わい、自らが創り出した感動に自ら祝福を与えるという光景は、実に興味深いものであった。時に賞賛の声を上げたかと思うと、長年の研究によって禿げ上がった額が大いなる喜びのために一層の輝きを増し、それはまるで自ら書いた悲劇のシーンに対してパルテール(1階のフロア席)の客が総立ちになって拍手喝采を送ってくれたときの詩人のようだった。彼は喜びを節約するように少量ずつ口に運び、目の前できらめきを放つ30年物のボルドーを見つめるグルメにも似た快楽に満ちた表情でゆっくりと味わった。
 ビスク・ド・ペルドロー(ヤマウズラのポタージュ)は、その風味の繊細さと言葉に尽くせぬ香りの素晴らしさ、そして肉質の良さから十分推奨に値いするように思え、カレームは自ら二皿目を給仕した。
 オルトラン・ア・ラ・プロバンサル(プロバンス風オルトラン)についてはそううまくはいかなかった。彼は鳥を被っている背脂になかなかフォークを突き刺すことができず、眉をひそめた。苦々しいため息を漏らすと、カレームはその皿を穏やかに押し下げた。しまった! トリュフには香りが足りない。天才料理人がまったくつまらぬ失敗をしでかしたものだ。彼は、どんな無名の料理人でさえうまくやれるようなところで裏切られたことを認めないわけにはいかなかった。成功と失敗は紙一重だ。そして、いかにしばしば栄光のかたわらに恥辱を見い出すことか!
 打ちひしがれて押し黙ったままのカレームの前に銀メッキをした釣鐘型の蓋のついた皿が運ばれてきた。その大胆で独創的な革新性によって3番目のコースとデザートの間に供するよう彼があらかじめ指示しておいたものである。まさに天才にのみ許される斬新な趣向だった。
 二人の同席者にしばらく興味と期待を抱かせたままにしておいてから、彼は勝ち誇ったように蓋を取り除き、優雅なまでに単純な形をした、一瞥しただけでどんな満ち足りた胃袋にも食欲を呼び起こさずにはいられない3つのタルトレットを披露した。タルトレットを被う誘惑的な色合いはとても筆舌に尽くしがたく、見れば誰もが味わってみたいという欲望に震えてしまうようなものだった。
 カレームは同席の二人にそれぞれひとつずつ配り、残りのひとつを自分用にとった。
 パティシエの芸術がこれまでに生み出したものの中で、これと同じようなものはひとつとしてなかった。あのバーテルが、このようなクリームと一体となったとろけるような生地の極上の美味を味わう機会を与えられたことがあっただろうか。然り。偉大なるバーテルがこれを賞味しそこなったということになれば、彼は魚で失態を犯した忘れがたいあの日のように、怒りの叫びをあげながらその絶望した手で剣をとったに違いない。
 詩人とプリマ・ドンナは、湧きあがる情感からくるごく自然なしぐさでそれぞれの手をカレームの腕に差し伸べ、感嘆をこめて握りしめた。その賞賛を彼は自らの優秀さを認めさせられた芸術家のように手放しでは受け取らなかった。それどころか、どこかへりくだったような表情さえ浮かべたのだった。
「いやいや!」と彼は言った。「この菓子については、私は功績を主張することなどできません。これほどのものを創造した栄誉に浴するべきひとはほかにいます。私は単にその作り方を心得ているパリのメートル・ドテルに過ぎないのです。卓抜したこの菓子の製法の秘密を知っているのは、私を含めて3人だけです。おそらく、あなたが詩人としてこれまでに書いてこられたどんな冒険譚の中にも、この菓子のレシピが私の手に渡った一連のいきさつほど風変わりで奇妙な話を見い出すことはできないでしょうし、想像すらできないにちがいありません。お望みでしたら一部始終をお聞かせしましょう。このささやかなガストロノミーの饗宴にふさわしい話ですし、知られざる真実を後世に伝えることにも繋がります。つまるところ、料理の探求は音楽や絵画と同様に若い人たちの教育の糧となるべきものなのですから。
「今から7,8年前の夕暮れ時のことです。ベネベント大公閣下(タレーラン)が主宰される晩餐会についてずっと考えを巡らせていた私は、いささか疲れて仕事場を離れ、パリの通りをあてもなく散策にふけっていました。考えをまとめるのには歩くことが一番なのです。私が頭を悩ましていたのは、新しいメニューに加えて、ヨーロッパのほとんど正反対のふたつの国の料理、すなわちイタリア料理と英国料理を質的に結びつける大胆な組み合わせをどうやって見つけるかということでした。
 思索にふけっていると、不意に私の名を呼ぶ声が聞こえました。私は頭を上げて瞑想の世界から現実の世界へとわが身を引き戻しました。
 私を引き止めた人物はパルマ公、すなわち帝国大法官閣下(カンバセレス)だっだのです。閣下は、夜ごと閣下のご来場の栄に浴しているバリエテ座に赴く途中で、いつものようにパノラマ通りを散策しているところでした。閣下の後ろ、2,3歩下がったところには、これもいつものように、腰に剣を下げ帽子を小脇に抱えたビルビエイユ公爵とエーグルフイーユ公爵が供についていました。ビルビエイユ公爵は確かに飢餓が人に与える典型的な体型をしたお方でした。彼の骸骨のような痩身を打ち破ることはかねてより私の大望のひとつでした。美食家が飢えた人のような姿になっているのを見ると、いつも悲しい気分になったものです。反対に、エーグルフイーユ公爵は、その丸々とした体つきから、良き食卓に恵まれ、必要からではなく喜びから食する人のように見えました。
『さてさて』閣下が私に話しかけてきました。『こんなところでいったい何をしているのかね、カレームさん? 最近、料理の芸術をさらに完璧にするような新しい知見が何かあったのかな?』
『閣下のような優れたガストロノミーの大家にお示しできるようなものは何も』私は答えました。『しかしながら、近いうちに賛同を賜れるような革新的なものをぜひご提示できればと思っております』
 それから私はイタリア料理と英国料理の結合についての私の計画をお話しました。エーグルフイーユ公爵とビルビエイユ公爵が私の話を聞こうとそばに近づいてきました。
『カレームさん』閣下はお答えになりました。『きみがいま言ったことは、どうも天才の取るべき方向からずれているように思えるのだが。英国に関してはすべきことなど何もないよ。というのも彼らの料理は粗野なものだからね。私はイタリア料理についてもあまり評価していないのだ。スパイスを使いすぎているから舌がヒリヒリするだけで繊細さからは程遠いしろものになってしまっている。プディングは消化不良を起こさずにいられないし、マカロニにはコショウがたっぷりと振りかけられているといった具合さ。私が君だったら、古典的なもの、および東方のものを探求するだろうな。ギリシャ人やローマ人は良き生活を理解していた。おいしい果物に恵まれていたインド人やペルシャ人、トルコ人は世界中のどの人びとにも増して保存法や菓子の製法に長けていた。きみが学びたいのであれば、彼らの方を向くことだ。しかしそれでも新しいものを創りだす方が良いのは間違いない。その点に関してはきみより優れた者などいないわけだしね』
 エーグルフイーユ公爵とビルビエイユ公爵は公の言葉に賛意を示し、私を褒め上げました。私はこの光栄なる励ましにふさわしい人間であることを証明して見せようと意を決し、ふたたび瞑想にふけりながらぶらぶらと歩き始めました。それまでと同様、長いこと行方も判らないままさまよい歩いたのです。ついには疲労が私の食欲を呼び覚まし、私は空腹を満たす場所を探すために科学的探究を中断しました。自分がどこにいるのか確かめようとあたりを見回しました。そこはロワイヤル広場を囲むようにして泥道が網目状に繋がった、サン・タントワーヌ通りと交差する細く真っ直ぐな路地のひとつでした。目の前に馬肉と怪しげなうさぎ肉を出す粗末なギャルゴットがありましたが、そんなところで食事をするなど、考えただけでぞっとします。少し離れたところに小さなパティシエの店があることに気づき、そちらに入ってみることにしました。あのカレームが質素なひと切れのガレットで食事をとるのかと思うと、苦笑が浮かんできました。しかし、意外なことにカウンターの上にはそんな粗野な菓子はひとつとして置かれていなかったのです。私が目にしたのは、非常に魅力的に見えるタルトレットだけで、それを売っているのは年寄りの黒人の女でした。
 それを口にしたときの驚きと言ったら! 古代ローマの詩人オウィディウスがトラキアの百姓が即興的に作った詩句を耳にして、それが自分が作ったものよりずっと美しかったときのことを想像してみてください。私はふたつ目のタルトレットを食べてみました。もしかしたら何かの偶然が重なり合って最初に食べた菓子にえもいわれぬ風味を与えたのかもしれないと思ったからです。しかし、あろうことかふたつ目のタルトレットは最初のものに勝る出来でした。驚愕した私は黒人の女に尋ねました。『マダム、このタルトレットは誰が作ったのかね?』
『私でございます』と女は答えました。
『だったらレシピを教えてはもらえないだろうか』私は言いました。『もちろん、ただでとは言わない』私は財布から500フランを抜き出すと、アフリカ人の女に差し出しました。しかし、彼女はその申し出を拒み、こう答えたのです。
『旦那様、あなたのお申し出は受けるわけには参りません。私は死に行く女性にベッドのかたわらでお誓い申し上げたのです。このタルトレットの秘法は彼女のお嬢さん以外にはけっして漏らさないと。さらにお嬢さん自身も18歳の誕生日を迎えるまではほかの人に漏らしてはならないという条件のもとに』
 この返答が私の好奇心を満足させるどころかますます募らせたのは言うまでもありません。
『その女性というのはどなたなのだ?』私は問いかけました。
『その方のお名前はまったく存じません。ある晩のこと、私はかわいそうな外国人の世話をするためにロンドンに呼ばれました。1歳ほどの小さな女の子を連れたその方は日中にそこに到着し、突然病に倒れられたのです。その方を看ておられたお医者様の話では、今夜いっぱいはもたないだろうとのことでしたが、そのとおりでした。ほどなくしてうわごとを口にするようになりました。その不運なお方の心を占めているのはただふたつのこと、すなわち後に残されるお嬢様のことと、お菓子の作り方のことでした。その方の言うには、そのタルトレットを最初に創作したのはペルシャの王子さまだということです。朝方になってうわごとが止みました。死を目前にした女性は頭を上げて私に近くに寄るよう身振りでお示しになりました。そしてはっきりとした口調でレシピを何度も繰り返したのです。これをよく覚えていてちょうだい、とそのお方は言いました。これは私が娘に残してあげられるただひとつの幸せの希望なの。娘が18歳になるまでは、これをあなたと娘以外の誰にも知られないように! 誓ってくださいね! 不思議な力がそのお方を守ってくれていたに違いありません。そう言うと彼女は仰向けに倒れました。死んでしまったのです』
 しばらく涙を流した後、その黒人の女はふたたび口を開きました。
『こんな卑しい身ではありますけれど、私は母親をなくした子どもを見捨てるほど薄情ではありません。いくばくかの衣類と亡くなった方の遺した宝石を売って、きちんと埋葬を済ませました。そして、残ったお金で小さな店を買い取ると、あのお方に教えてもらったとおりのレシピでタルトレットを作り、それを売り始めたのです。この新しい商売はやがて大評判となり、そのおかげで私はそれまでの看護士の仕事を辞めて引き取った娘を立派に育て上げることができたのです。12年後にはパリに旅行するのに十分なほど裕福になっていました。これは私にとってもっとも大きな望みでした。マーガレットの母親はフランス人です。なにか不思議な手がこの子を母国に連れ戻そうと私を導いているかのようでした。私はロンドンを発ち、世情が安定するやいなやパリに向かいました。あのタルトレットは、パリでもロンドンと同じような評判を得ることができました。しかし、彼女の母親があれだけ確信を持って予告した幸運な変化をあのタルトレットがマーガレットにもたらす兆しは、今のところまだありません』
『マドモワゼル・マーガレットに会わせてもらえないだろうか』
『いま眠っているんです、旦那様。7時に学校から帰った後は、翌朝の勉強に備えることができるよう8時には床に就くのです』
 しばらく考えてから、私は3つ目のタルトレットを賞味しました。行動を起こすのにためらう必要はないという新たなる確証を得た私は、黒人の女に伝えました。
『明日の午後4時にベネベント公の屋敷に来てこのタルトレットを6個ほど作ってはもらえないだろうか。これが屋敷の住所だ』
 彼女は疑い深げな表情で私を見ています。
『怖がることはない』と私は告げました。『私の名誉にかけてあなたの秘密を侵そうとしないことを誓おう。ひとつだけ要請したいことがあるとするなら、私としてはタルトレットを熱いうちにお出しできるようにしたいのだ。必要な材料はすべてあなたが持参してくれば良い』
 翌日、彼女は私が指示したとおりにやってきてタルトレットを用意しました。私はそれを公が帝国大法官閣下と食事をされているテーブルにお出ししました。私はもどかしい気持ちで結果を待ちわびました。ほどなくして私は公に呼ばれました。てっきり賞賛の言葉をいただけるものと思っていたのです。しかし、タレーラン公の口から出たのはお咎めの言葉でした。
『カレームよ、さっき食卓に出されたタルトレットにはいったい何が入っておったのだ? カンバセレスは味わうどころか顔を真っ赤にして突然の消化不良に襲われたのだぞ』
 それはパルマ公が経験した初めての消化不良でした」


2.消化不良の結末
「カンバセレス閣下は、生涯で初めての激しい消化不良に見舞われたのです。こともあろうにタレーラン公の屋敷の、それもカレームの指図のもとに供された食卓で! 私は恥ずかしさと悲しみでこの身が引き裂かれる思いでした」カレームは忌まわしい思い出に青ざめながら続けた。少し身震いをするとさらに言葉を継いだ。
「このような障碍は私の生涯の運命を決定し、これまでの数々の輝ける業績を台無しにし、私の手足を敵やライバルからの辛辣な言葉でがんじがらめに縛りかねません。あまりに残酷なこの一撃は私自身がこれまでもっとも堅牢だと信じてきたものを打ち砕いてしまったのです。私はこれまでずっと自分の料理の大きな長所は衛生とガストロノミーを調和させたことであると公言してきました。しかしいまや、ヨーロッパでもっとも著名で強靭で申し分がなく不死身な胃袋が、私の手によって打ち負かされたというわけです。
 その夜をどんなに絶望的な気持ちで過ごしたか、言葉では言い表せません。1時間ごとにパルマ公の様子を伺いに使いをやりました。公はその後もずっと苦しんでおられました。憔悴し、熱によって引き起こされた身体の不調がさらに悪化するように思えました。しかしとうとう、明け方の5時になろうとするころ、病人が深い眠りに落ちたという知らせがもたらされたのです。医師は、この先はもう症状が悪くなることはないだろうと言い残して帰っていきました。
 わが犠牲者の健康に関して最小限の安心を得ると、私は眠りにつこうとしました。睡眠が必要でしたが、目を閉じることはできません。朝まだき、私は、自分が情熱を込めて愛した芸術で気を紛らわせようと仕事場に降りていきました。しかし、それは私にとって残酷なごまかしに過ぎませんでした。もっとも単純な組み合わせにすら集中できないのです。タレーラン公の朝食のために私が好んで用意してきたクリームの中に、砂糖を2回も加えてしまうありさまでした。しかも、自分でも驚いたことに、そのクリームの入った鍋を火をつけていないコンロで温めようとしていたのです。
 正午に近いころ、パルマ公の従者のひとりがやってきて、公が直ちに私と会いたがっていることを伝えました。
 これは最後の一撃でした。閣下は私の失態と恥辱を面と向かって非難されるに決まっています。サン・タントワーヌ街で見つけた忌まわしい菓子を高貴な食卓へお出しした自らの不明に対して、私は当然受けるべき罰に甘んじなければなりません。処分を受けんとする軍人のようにメートル・ドテルの正規の装いに身を包むと、私は公にお目にかかるために出かけました。すぐにお目通りが許されました。公の顔色は青白く、沈みきって衰弱し、陰鬱なご様子でした。私は跪きました。涙が溢れてくるのを抑えることができません。
『そう心配しなくてもいいよ、カレーム』公は優しくおっしゃいました。『安心してほしい。私の消化不良には、きみは何の責任もないのだ』
『あなたのご慈悲は私の後悔をいっそう募らせます。私の失敗もますます重大です』私はそう申しました。
 公は私を立ち上がらせ、椅子にかけるようお示しになりました。それから、前夜の苦難の跡が窺える様子で額を両手で被い、こうお尋ねになりました。
『あのサフランとザクロのタルトレットは、きみが自分でレシピを考えたのかね?』
『そうではありません、閣下。あれは私自身の手で作ったものではないのです』
 公はまるで毒蛇に咬まれたかのようにハッと身を起こし、私をまじまじと見つめながら先を促しました。
『この失態の責任はすべて私にあります。つまり、私は罰を受けなければなりません。そうです、閣下。私の無分別から、わが主君と閣下が同席された食卓に、サン・タントワーヌ通りの店で商売をしている黒人の女が作ったタルトレットを臆面もなくお出ししてしまったのです』
『カレームよ』公はおっしゃいました。『その女に誰が作り方を教えたのか、私は今すぐそれを知らねばならない』
 私は、公のそのあまりに切迫したご様子に、これはてっきり大法官に毒を盛ろうという者がいたに違いないと思ってしまいました。
『女は私には話そうとしませんでした。その秘密に対して金を払うといっても無駄でした。頑強にレシピを売ることを拒んだのです。私の知りえたことは、彼女が女の子と一緒に英国から来たということだけでした』
『ああ、神よ!』閣下はつぶやかれました。『神よ! ついに私は長年追い求めてきた秘密を突きとめたのではあるまいか?』
 公がベルを鳴らすと、部屋付きの侍従が現われました。
『ピエール、私の馬車でカレームさんと一緒にすぐにサン・タントワーヌ街で菓子を売っている黒人の女のところへ行っておくれ。その女と、それから一緒に暮らしている少女を私のもとに連れてくるのだ。全速力で頼むよ。こうして待っている私には1分が1世紀にも感じられるほどなのだ。昨夜の苦痛が残っていなければ、私が自ら駆けつけるところだが』
 私の思考はまるで混乱し、何が起ころうとしているのかさっぱり理解できませんでした。従者の驚きも私と同様でした。道すがら、彼は、これまで20年間にわたって閣下にお仕え申し上げてきたが、あれほどまでに興奮状態になった公は見たことがない、と言うのです。
 馬が疾駆してくれたおかげで、ほどなくして目的地に到着しました。黒人の女は懸念する様子もなく、むしろ私たちと一緒に来るようにという指示に喜んで従ったのでした。
『それでは、あなたはカンバセレス公と知り合いなのか?』と尋ねると、彼女の答えはこうでした。『いいえ。でもそれは問題ではありません。あのタルトレットはやはり私たちのお守りだったのでしょう? 亡くなる間際にあの方が予言されたことが実現しようとしているのに違いありません』
 そうして彼女は少女を呼びました。まれに見る美しさで、年のころは14歳か15歳といったところでしょう。二言三言英語で話しかけてから、女は少女を私たちに紹介しました。少女が年老いた女の手を取り目を上げて神に敬虔な感謝を捧げるのを待って、私たちはともに公の屋敷に向けて馬車を進めました。
 私たちが公の居室の敷居をまたがないうちから、大法官は驚きと喜びの声を上げました。少女のかたわらに駆け寄ると、手を取って額に口づけをし、こう叫んだのです。
『わが子よ! おまえをいったい何年探し続けたことか!』
 私は居室を辞し、控えの間に下がってそこでタレーラン公の任務に就く午後5時まで待機していました。もう一度パルマ公からご下問があると予想していたからです。しかしそれは間違いでした。閣下は、私があれだけ重要な役割を演じた冒険について、二度と私にお話しようとなさらなかったのです。一度だけ、高名な美食家の方々と会談したおりに、思い切ってあのミステリアスなタルトレットのことをほのめかしたことがあります。禁忌に触れたような公の表情が私の軽率な言動への警告となり、私は口をつぐみました。それ以来、同じ失策を繰り返さないよう細心の注意を払ってきたのです。
 しかし、あの奇妙なタルトレットの秘密が、もっとも重要な研究に取り掛かっている最中ですら、私を悩ませていたことを申し上げないわけにはいきません。黒人の女を探し出そうとする私の努力は実を結びませんでした。彼女がいたカウンターには、今では別のパティシエがいます。彼は彼女には会ったこともありません。女は自分の店に戻りもしなかったのです。カンバセレス閣下の従者は彼女の家財を持ち出し、2年分に相当する賃料を支払っていきました。
 私は馬鹿げた考えにとらわれていました。閣下はあのタルトレットがあまりにおいしかったので、ガストロノミーのすばらしい日々をより価値あるものにするために、独占しようとしているのではないか。しかしながら、タルトレットは二度と公の食卓にのぼることはありませんでした。屋敷に連れてこられるまで、公は少女のことをご存じなかったはずです。にもかかわらず、少女を一目見るなり公は大変な喜びようを示されました。その後少女と黒人の女がどうなったのか、誰も知りません。屋敷の奉公人たちですら。屋敷の中で彼女たちを見かけたものはいないのです! ですから、私の好奇心がいかに満たされずにおかれたかお判りでしょう。
 それから3年がたち、私はその奇妙な体験の詳細をほとんど忘れかけていました。そんなある朝のこと、タレーラン公がもったいなくも私の仕事場までお出でくださったのです。公は時おりそのようなご好意や、こう言うのを許していただけるならば、友情を私にお示しになります。
『カレームよ』公は私に微笑みかけながら申されました。『私はお前に秘密を打ち明けに参ったのだ。お前がどんな約束に対しても忠実に守る人間だということは判っておる。だからこれから私が話すことは決して誰にも、死ぬまで漏らさないと誓ってはくれまいか。お前の名誉にかけて誓ってもらいたいのだ』
 公が私に誓いを求めたその口調は、半分はまじめで半分は冗談めいたものでしたが、それは公が私に用いるいつものやり方でした。私は公のおっしゃったとおりにすると約束しました。
『さて、これで何の憂いもなくお前にとあるアントルメのレシピを打ち明けることができるわけだ。それを次の木曜日に私が催す晩餐会でお前に作ってもらいたい』
 私はそのレシピに目を奪われました。疑いなくあの不可思議なタルトレットのものだったのです。
 公は私の驚きと困惑に笑みを浮かべずにはいられないご様子でした。私が懇願したにもかかわらず、何の説明もなさらないまま公は帰っていかれました。
 何度か試作を繰り返した後、私はあの黒人の女のものとまったく同じおいしいタルトレットを作り上げることに成功しました。
 それはまことに風変わりで見慣れない、明らかにほとんど正反対の材料の組み合わせでできていました。レシピに書かれている配合をそのまま読んだ人は、おそらくこれは料理術の技量に富んだ知識によるものではなく、むしろ狂った想像力の産物だと見なしたことでしょう。その判断は、どうぞあなた方ご自身でなさってください。このようなものが味覚にとってこれほどおいしく感じられるというのは、ありえることでしょうか? まず、チーズがマデラ・ワインと一体になります。次いで、コショウと砂糖が牛乳、油と思いもよらない結合を形成します。そしてついにはサフランとシナモン、はちみつが肉汁、オレンジの香り、ザクロの果汁そして強烈なショウガ汁と混ざり合うという未体験の驚愕に遭遇することになるのです。
 次の木曜日、食事を差配するために食事室に入っていった私の目にまず飛び込んできたのは、3年前にあの黒人の女が公の元へと伴った少女でした。ダイヤモンドを身にまとった彼女は、タレーラン公の右側の最上席に座っておりました。左側にはパルマ公がおられます。驚きのあまり私は手にした帽子を取り落とし、それを拾いあげるさいに危うくオフィシエ・ド・ブシュを押し倒してしまうところでした。
 いよいよタルトレットをお出しする瞬間がやってきました。私は給仕長から皿を受け取ると、大胆にも自らの手で少女の目の前にそれを置いたのです。タルトレットを目にした彼女は少し動揺した様子で、かたわらの大法官と意味ありげな目配せを交わしました。そしてついにタルトレットに手を伸ばしました。菓子を食べ終わった彼女は、それを作った私が示した才能に対して丁重に賞賛の言葉をかけてくれたのでした。
 食事が終わって人びとがテーブルを離れるために立ち上がると、私はすぐにエーグルフイーユ侯爵のかたわらに身を寄せて少女の名前を尋ねました。
『D公爵夫人だよ。先週、若きD公爵と結婚されたんだ。きみも知ってのとおり、大変な金持ちで、武勇に優れ、しかも美男子だ。持参金は大変な額だったそうだ。少なくとも500万フランはくだらないらしい』
 私は呆然となりました。あのタルトレット売りが500万フランの持参金とは! しかし、それは事実なのです。後に私が閣下の書記から得た情報がエーグルフイーユ侯爵の話を裏づけてくれました。それ以来、私はこのミステリーの一件については何の新発見もできないでいます。あまりに複雑なゴルディアスの結び目を解く方法が見つからないのです。それを断ち切るアレクサンダー大王の剣を持たぬこの身では、これ以上考えを進めるすべもありません」
「それでは」とプリマ・ドンナが口を開いた。「わたくしがその謎を解いてさしあげましょう」
「あなたが?」カレームは驚いて尋ねた。
「そう、わたくしが」
「いったい、どんな奇跡で?」
「ああ! 奇跡でも荒唐無稽な話でもありません。いたって単純な、ありふれたことなのです。わたくしは、実はドロテとは学校時代に同級生でした。ドロテ、つまり現在のD公爵夫人です」
「何という興味深い偶然!」カレームは思わず大声を上げた。
「その偶然が、あなたがこれほどまでに苦悩しながら追い求め続けてきた秘密を共有する200人の若い女性とわたくしを結びつけているのです。あなたがこの謎のことをお話しになってすぐに、わたくしにはそれを解いてさしあげる準備ができていました」
 今度はカレームが耳を傾ける番だった。
「1776年のことです」女は語り始めた。「モンペリエの隣りあった敷地にふたつの家族が住んでおり、この家族は隣人として親しく付き合っておりました。片方はありふれたお屋敷でしたが、もう片方は立派な大邸宅です。お屋敷は救護裁判所裁判官のカンバセレス氏のもので、大邸宅はピカルディの知事でおられるP伯爵のものでした。
 裁判官のご子息は成長するにつれ知事のお嬢様と大変仲良くなっていきました。年頃も同じで互いに隣同士なものですから、ふたりは互いに何の妨げもなく毎日会っていたのです。伯爵は公務で家を空けられており、その留守中のディアナお嬢様の教育は年老いた伯母さまが担っておられましたが、その伯母さまも二人の仲を咎めだてしようとはなさらず、それはふたりが18際になるまで続きました。
 ですから、カンバセレス家のご子息のレジは社交的なお付き合いをめったになさらない二人の女性とほとんど毎晩のように過ごされていたわけです。唯一の例外は、副司教をなさっている大叔父さまで、ピケのたいそうなプレイヤーであるこの方は夕刻になるときまってやってきて、午後5時から9時までの間、カード・テーブルに未亡人のV伯爵夫人と向き合って腰を落ちるけるのです。
 こうして年寄りたちがそれぞれの楽しみやカード遊びに興じている間、若いふたりは読書に耽り、この世でもっとも理想的で詩的な愛の言葉を互いに伝え合っていました。アラビアンナイトもそんな書物の一冊で、これは伯母さまから読むことをお許しいただいたものでした。不可思議な宝物が数限りなく盛りこまれた東洋の想像力溢れる素朴で素晴らしい物語の数々。それはほかのどの本にも増してふたりを魅了しました。かれらはすべての英雄たちの名前を、そしてほんの些細な冒険すらも心得ていました。何度も何度も繰り返し読み、名も知らぬ貧しい若者がある日突然立派な王子に生まれ変わり、長年密かに思いを寄せてきたカリフの娘と結婚することができたという話を諳んじていたのです。
 中でも、美しい貴婦人を妻に持つ謎めいたハサン・パドレディンの逸話はとてもおもしろく、彼はふたりのお気に入りのヒーローでした。
 そんなある夕刻。ダマスカスの門前のタルトレット売りに身をやつした可哀そうな王子の話を読むのはこれでもう100回目以上にもなろうかというふたりの心にふと、この王子のタルトレットを自分たちでも作れないだろうかという突拍子もない考えが浮かんだのです。レシピの一部は本の中に書いてあります。この計画はかれらに喜びをもたらしました。さっそく厨房に走ります。後にヨーロッパでもっとも卓越した美食家として名を馳せるレジの情熱の兆しはすでにありましたが、このときの彼は若いお嬢さんの料理の挑戦におけるひ弱な助手にすぎませんでした。試行錯誤を繰り返し、何千回にもおよぶムチャクチャな試作の末に、ついにかれらはすばらしいタルトレットをつくることに成功しました。ふたりはすぐにその作品を伯母さまと副司教さまのところに持って行きました。何やら訳の判らない混合物を疑わしげに口にした彼らが、そのおいしさとすばらしさを賞賛するのにそれほど時間はかかりませんでした。
 4人がこの子どものような喜びに浸っているちょうどそのとき、邸宅の窓の下で馬車が立てる騒がしい物音が聞こえました。駅馬車が中庭に入ってきたのです。すぐに威厳のある厳しい表情をした人物が居間の扉を開きました。伯母さまはその旅人のもとに駆け寄って抱きしめました。ディアナはキスを受けようと尊敬のこもったしぐさで額を突き出します。それはP伯爵でした。
 伯爵は副司教さまに冷ややかな挨拶を送ると、凍るような一瞥をレジに投げかけ、自室に下がってしまいました。若者は喪失感に囚われながら母親のもとに戻り、最悪の予感に苛まれたのでした。
 ああ! その予感は的中してしまったのです。彼がその後ディアナと会えたのはたった一度きりのことでした。翌日、ディアナ自身には何の相談もなく、父親はV侯爵のもとに嫁がせるために彼女を連れて発ってしまいました。
 レジは離別の無念さから、沈んだ気持ちで日々を過ごしました。時間と勉学がその深い悲しみの慰めとなりました。彼は弁護士となり、生まれ故郷の町から200リーブルの年金を受ける身となりました。ほどなくして、彼はモンペリエの法曹界でもっとも傑出した人物として名声を博すことになります。彼についてのその後のことは、あなたも良くご存知でしょうから、これ以上申し上げません。ひ弱なレジは有名で力のあるカンバセレスとなったのです。カンバセレスは帝国の大法官となり、パルマ公を拝命しました。
 恐怖政治のただ中の1793年のことです。ハサン・パドレディンもそのタルトレットも長いこと忘れてしまっていたカンバセレスのもとに一通の手紙が届けられました。差出人の名前を見ただけで彼の心臓は高らかに鳴り、目には涙が溢れました。それはディアナからの手紙だったのです。
『わたくしは他国への移住を余儀なくされてまいりました』手紙にはそう書かれていました。『夫はキベロンの戦いで戦死し、それ以来、異郷暮らしと窮乏がわたくしの運命となっております。私は母親であり、あなたにわが子を守っていただきたいのです。良き時が到来するまで、フランス政府によって差し押さえられている父親が娘に遺した遺産をあなたのもとに保管しておいてはいただけないでしょうか。レジ、このことをパドレディン王子のタルトレットに関わるあの残酷で甘い夕べの名にかけてお願いいたします。ディアナ。
追伸 わたくしは英国に向けて発ちます。ロンドンに着いたらもう一度お手紙を差し上げ、ご返事をいただく方法についてお知らせします。』
 カンバセレスは2通目の手紙が届くのを6ヶ月待ちました。それから、戦争にもかかわらず、またこのような調査が困難であることを承知の上で、ディアナを見つけ出してフランスに連れ戻すために英国に使いを出しました。フランスでなら彼の影響力によって彼女の健康を回復させることが望めたからです。しかし、それは無駄足でした。彼女はロンドンに着いたその日のうちに恐ろしいほどの精神的苦痛のために亡くなってしまっていたのです。
 さあ、これですべてが明らかになったわけです。偶然が、いやむしろ、こう申し上げても冒涜にならないとは思いますが、神のご意思が、パルマ公閣下とV侯爵の莫大な遺産のもとにディアナのお嬢さんを送り届けるため、あなたをお導きになったということではないでしょうか。若い孤児の保護者となったカンバセレスは、彼女をパリでもっとも優れた学校に入れて教育を終えさせました。それからD公爵のもとに嫁がせたのです。
 年寄りの黒人の女は、今ではもっとも幸福な家政婦となって、かつての養い児の邸宅の豪奢な一室に住み、もはや伯爵夫人の子どもらのために時おりパドレディン王子のタルトレットを作ってあげるほかは菓子に心を悩ませることはありません」
 女が話し終えるころには、カレームは深い夢想の中にあった。
「ガストロノミーにもやはり物語が付きものなのですね」彼は口を開いた。「この素敵な話が世に知られていないとは何と不運なことでしょう。これはおそらく、女性のための教育においては料理術がすべてに先んじて位置づけられなければならないということを示す格好の教材です。料理術は、数学より優れているとまでは言わないまでも同等の正しい判断力を養います。そしてそれはこの世での幸福や成功のための手段となるのです。もっとも、その手段はしばしば賢さにも思慮深さにも乏しい指導によって奪われてしまっているものなのですが」
 この奇妙な逆説を笑うものは誰もいなかった。不条理であるとも馬鹿げたものであるとも思えなかった。カレームは自らが従事する職業にきわめてまじめに取り組んでいる者の一人であり、その熱意の力によって彼の職業は芸術の域にまで高められたのである。
「カレームさん」詩人が言った。「いつか、この話を私が書きましょう。お約束します。そう遠くないうちに、あなたはそれを出版物で目にすることができるはずです」
 ああ! カレームがそれを読むことはなかったのだ。プリマ・ドンナも読まなかったし、D公爵夫人も読まなかった。3人とも今では土の下で眠っている。最初のひとりはパリで。次のひとりはブリュッセルで。そして最後のひとりはドイツで。
 カンバセレス、タレーラン、ビルビエイユ、エーグルフイーユ。彼らも皆この世の舞台から退いてしまった。この話の登場人物の中で、残っているのは「パドレディン王子のタルトレット」の物語の作者だけである。

LE TARTELETTES DU PRINCE BEDREDDIN
par S. Henry Berthoud
d'aprés "La Presse", Avril 20 et 21, 1842