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カレームが登場するフランス映画『晩餐』(Le Souper)

アントナン・カレームはおそらく史上もっとも著名なパティシエ・キュイジニエですが、彼の名前が登場する文学作品はほとんどありません。
ましてや、映画となると皆無といってよいでしょう。
その中で例外とも言える1作が1992年のフランス映画「晩餐」です。残念ながら日本では未公開でDVDも販売されていませんから、おそらくこの作品に触れた日本人はほとんどいないのではないかと思われます。
そんな貴重な作品を日本語字幕付きで紹介してみたいと思います。
とは言うものの、日本語字幕は管理人が自分で翻訳してつけたものですから、間違いが当然あると思います。平にご容赦を^^;
この映画の配信元は YouTube です。オリジナルで鑑賞したい方は こちら でどうぞ。ただし配信元が著作権をクリアしているかどうかは分かりませんので、突然上映中止になる可能性もあります。あらかじめご了承ください。

実は、この映画を鑑賞するにあたっては若干の予備知識が必要です。そこで、あらかじめ知っておいたほうがよいと思われるいくつかの事柄についてかんたんな解説を付しておくことにしました。
映画の内容を理解してより楽しんでただくためにも、作品鑑賞に先立って以下の「かんたんな解説」に目を通していただくことをお勧めします。


かんたんな解説

まずは映画の概要から。

製作年:1992年
製作国:フランス
監 督:Édouard Molinaro
原 作:Jean-Claude Brisville
主 演:Claude Brasseur ... Fouché
    Claude Rich ... Talleyrand
    Stéphane Jobert ... Carême
梗 概:ワーテルローの戦いで破れたナポレオンが失脚した直後の1815年7月6日深夜のパリ。フランスの未来に対する不安から街全体が騒擾に包まれ、一触即発の状態にありました。そんなさなか、ともにナポレオンの重臣であったタレイランとフーシェが2人きりの晩餐の席で向かい合っていました。フランスの将来についてフーシェに重大な決意を迫るためにタレイランが密かに自邸に招待したのです。
ウィーン会議での交渉で敗戦国フランスに有利な条件を勝ち取ったばかりのタレイランは、ルイ18世を国王に戴いての復古王政こそフランスの安定に欠かせないと確信していました。一方のフーシェはあくまでも共和制にこだわり、自己の最大の武器である警察組織を頼りに秘密情報を駆使して共和制を復活させるという夢を捨てきれませんでした。
連合国による占領下のパリで王政復古が唯一の現実的な選択であることを熟知しているタレイランがこの秘密の晩餐会を企てたのは、フーシェにルイ18世に忠誠を誓って復古王政に協力するよう説得するためでした。
フーシェにはフランス革命に際してルイ18世の兄王であるルイ16世の処刑に賛成したという過去があり、そう簡単にルイ18世に忠誠を誓うわけにはいかない事情があります。一方のタレイランにも妥協や背信に満ちたダークな側面があり、秘密警察の長だったフーシェにその弱みを握られてしまっていました。
そんな緊張関係にある2人の晩餐が和気藹々とした雰囲気の中で展開するはずもなく、むしろ時とともにとげとげしい言葉が飛び交い、やがて対決の様相すら見せ始めるのでした。


次に鑑賞のための基礎知識を少し仕込んでおきましょう。
タレイラン
シャルル=モーリス・ド・タレイラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord、ベネベント公、1754-1838)。名門貴族の子息として生まれましたが、脚の障害のために両親から疎まれ、父親の指示で聖職者への道に進みました。司祭にまで出世したにもかかわらず、反カソリック的な活動に精を出し、フランス革命後には三部会議員に選出されたものの、その後ローマ法王から破門され、政治に専念するようになりました。
第一共和制時代およびナポレオンの帝政時代には外交官として辣腕を振い、特に帝政時代にはナポレオンの片腕として大いに能力を発揮しました。ナポレオン失脚後は巧みに振舞ってウィーン会議のフランス代表となり、敗戦国のフランスに有利な戦後処理を実現させました。その後ウルトラ王党派によって一時失脚させられましたが、1830年の7月革命で再び政治の表舞台に立ち、英国大使として活躍しました。
有能な外交官として高い評価を得る一方で、タレイランの行動にはたえず策略と陰謀、裏切りの影が付きまとい、フランス国内での国民的人気は高くありませんでした。
女性関係も賑やかで愛人をたくさん作ったことでも知られます。映画に出てくる若い女性は愛人の一人であるディノ公爵夫人で、この女性は甥にあたるエドモンの妻のドロテアですが、タレイランはドロテアの母親とも愛人関係にありました。
フーシェ
ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, オトラント公、1759-1820)。父親は船乗り。幼少時は虚弱でしたが勉学の才に恵まれていたため父親の後は継がず宗教施設で教育を受けました。その後ロベスピエールなど後のフランス革命の指導者の知遇を得て、その縁で政治の世界に足を踏み入れるようになります。はじめは穏健なジロンド派に属していましたが、後に過激なジャコバン派に転向、1790年代初頭の恐怖政治ではリヨン大虐殺の指揮をとるなどその非情さで名前が知られるようになりました。1894年のテルミドールのクーデターでは反政府の急先鋒としてロベスピエールらをギロチン台に送るのに一役買いました。特に情報収集能力に長け、その後の総裁政府で警察大臣を務めました。ナポレオン帝政時代もその特技を生かして警察組織のトップに君臨、ナポレオンを含むあらゆる高官や有力者の秘密情報を手中にし、自己保身の手段として大いに利用したのです。ナポレオン失脚後は臨時政府首班となり、ルイ18世の復古王政が始まると再び警察大臣に復帰しましたが、わずか2ヶ月でジャコバン派時代の行動の責任を取らさせる形で失脚してしまいました。
映画の最後に「困窮と孤独のうちに死んだ」というコメントがありますが、実際には亡命先で2番目の妻カステラーヌとともに平穏な生活を送ったとも言われ、その保証として警察大臣時代に収集した秘密情報のファイルを死ぬまで手放さなかったといわれています。
時代背景
この映画の設定は1815年7月5日の深夜です。その直前の6月18日にナポレオンはワーテルローの戦いに敗れてセント・ヘレナ島に流され、パリは英・普・墺・露各国の軍隊によって占領されていました。ナポレオン失脚直後の臨時政府ではフーシェが首班となりましたが、やがてタレイランの工作でルイ18世による王政復古がなると、首班の座にはタレイランが就きフーシェは警察大臣に就任しました。
この映画はタレイランの王政復古工作の仕上げとも言うべき国王とフーシェの和解をめぐる秘話とでも言うべきエピソードを扱っていますが、実話ではありません。7月5日の深夜にタレイランとフーシェが密かに会って晩餐を共にしたという記録は一切ないのです。ただ、映画のラストで引用されるシャトーブリアンの回顧録の一節は実在のもので、7月6日にフーシェがタレイランとともに亡命先のゲント(Ghent)からパリに戻ってサン・ドゥニに仮住まいしていたルイ18世のもとを訪れ国王に忠誠を誓って赦しを得たというのはまぎれもない史実です。王殺しのフーシェがなぜルイ18世に忠誠を誓ったのか、また、ルイ18世はなぜフーシェに赦免をあたえたのか、それはフランス近代史の謎のひとつとされていますが、この映画はそれに対するひとつの答を与えようとする大胆な試みでもあります。
カレーム
冒頭、いきなり厨房で作業中のカレームが登場します。希代の料理人カレームとタレイランの関係は良く知られていますが、この映画でカレームが登場するのは純粋に演出上の作り話です。というのも、1815年のこの当時、カレームはすでにタレイランの支配化にはいなかったと思われるからです。そればかりか、パリを離れていた可能性すらあります。いずれにしても、カレームが厨房で一人きりで仕事をすることはありえません。
とはいうものの、「晩餐」はカレームが実際に登場するおそらく唯一の映画であり、その意味で貴重なシーンといえます。
1793年1月の投票
フランス革命による共和制政府ができた後、ロベスピエールら指導者は国王ルイ16世の処遇について裁判を開き審理を重ねました。死刑にすべきだという意見と、蟄居させ幽閉するべきだという意見が分かれる中、最後は投票によって決しようということになり1793年1月15日~19日に4回にわたって投票が実施されました。
映画の中で再三にわたって出てくる「1793年1月の投票」というのは、この投票を指しています。投票の結果、ルイ16世の処刑が決まり、1月21日に国王はギロチン台に送られたのですが、この時に処刑への賛成票を投じた国民公会議員387名は、王政復古がなった後に王殺しとして王党派から指弾されることになりました。そして、その中にはフーシェも含まれていたのです。ちなみにタレイランはこの時期、恐怖政治を逃れてアメリカに亡命していました。「1793年の1月6日に、あなたがアメリカにいなかったのは残念だ」というタレイランの台詞は、この事実を元にフーシェを揶揄したものです。
ナントの溺死刑
タレイランがフーシェの弱みとして指摘した「ナントで共和主義者と結びついた」という台詞の元になった「ナントの溺死刑」の事件は、1793年に発生した王党派勢力によるバンデ戦争の際に、政府がジャン・バティスト・キャリエに命じて行なった掃討作戦の中で起きました。キャリエはバンデの捕虜(数千名とも言われる)をナント市に連行し、ロワール河に浮かぶ廃船に閉じ込めてそれを沈めたのです。この作戦にナント近郊の出身であるフーシェも参加していました。
リヨンの虐殺
フランス革命の後には王党派の反乱がしばしば発生しましたが、その中でもっとも大規模で深刻だったのが王党派の拠点であったリヨンで起こった反乱です。1793年8月に起きたこの反乱は革命政府軍によってやがって鎮圧されましたが、その抵抗があまりにも頑強だったため革命政府はリヨンの徹底的な破壊を決定し、ジョルジュ・クートンにその作戦の指揮をとるよう命じました。しかしクートンはその命令を非現実的であると考え、比較的温和な措置しかとりませんでした。そのため革命政府はクートンを更迭して、その代わりにフーシェらをリヨンに送り込んで命令の忠実な実行を継続させました。破壊は3ヶ月にわたって行なわれ、フランス第2の都市リヨンは完全に破壊されました。また、それにともなってリヨン市民の処刑も実施され、フーシェは処刑に大砲を用いるなどして3ヶ月で2000名を殺戮したと言われています。リヨンの名前は地図の上から抹消され、ビル・アフランシという新しい名称に代えられたのでした。
アンギャン公の処刑
フランス革命による亡命貴族の中で、ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン、通称アンギャン公は中立国であるバーデン公国で平穏な生活を送っていましたが、1804年に越境進入してきたフランス兵によって突然拉致され、パリ郊外のバンセーヌ城に移送された後、弁明の機会も与えられないまま銃殺刑に処せられました。直接の嫌疑はナポレオンに対する暗殺計画(カドゥーダルの陰謀)の首謀者ということでしたが、これは実は何の根拠もない冤罪でした。この処刑によって皇帝ナポレオンの帝政政府とブルボン家を中心とする王党一派との反目は決定的となりました。誰が処刑を最終的に決定したのか、それは現在に至るまで判っていません。しかし、タレイランの関与は当時から噂に上っていました。
シャトーブリアンの回想
映画のラストでシャトーブリアンの回顧録が朗読されますが、これは実在のもので、ブリスビルはこの文章に想を得て原作となる戯曲を書いたと想像されます。
参考までに以下にシャトーブリアンの「墓の彼方の回想 第2巻」からの原文を紹介しておきましょう。

Je me rendis chez Sa Majesté : introduit dans une des chambres qui précédaient celle du roi, je ne trouvai personne ; je m'assis dans un coin et j'attendis. Tout à coup une porte s'ouvre : entre silencieusement le vice appuyé sur le bras du crime, M. de Talleyrand marchant soutenu par M. Fouché ; la vision infernale passe lentement devant moi, pénètre dans le cabinet du roi et disparait. Fouché venait jurer foi et hommage à son seigneur ; le féal régicide, à genoux, mit les mains qui firent tomber la tête de Louis XVI entre les mains du frère du roi martyr ; l'évêque apostat fut caution du serment.
Châteaubriand - Mémoires d'Outre-tombe
Tome II, p.504
(拙訳)
私は陛下の邸に赴いた。王の間に続く部屋に入ったが、そこには誰もいなかった。部屋の片隅に腰を下ろして待機した。突然扉が開き、犯罪の腕につかまった背徳が、つまりフーシェ氏に支えられたタレイラン氏が沈黙のうちに入ってきた。地獄の光景が私の目の前を通り過ぎ、王の間に消えた。フーシェは王に恭順と忠誠を誓うためにやって来たのだ。忠実な王殺しが、ひざまずき、ルイ16世の首をはねたその手を弟王の手に委ねたのである。背教の司祭はその誓いの保証人であった。

それではどうぞゆっくりとご鑑賞ください。