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カレームのプロフィール
■カレームの生涯(1)
さる1月、カレームが50歳で亡くなった。絶大な名声を得た人物だった。
これは1833年出版の「パリもしくは101の書(Paris ou le livre des cent-et-un)」に収録された追悼文、「カレームの死(La mort de Carême)」の冒頭の一節です。
筆者はフレデリック・ファヨ(Frédéric Fayot)。自らを「カレームの秘書(secrétaire de Carême)」と名乗った文筆家です。
アントナン・カレームはガストロノミー史上初めて「料理人のセレブ」と呼ばれた料理人ですが、その素顔は意外と知られておらず、彼の生涯を窺い知ることのできる資料は「カレームの死」と彼自身によるとされる「回顧録」があるだけで、この2つの文献を除けばほとんどありません。
もちろん、カレームの生涯について触れられた書籍は山ほどありますが、カレーム自身が自著の中で断片的に述べている記述を除けば、元を辿ってゆくとほぼ全てがこの2つの文献に行き着きます。
後年になって発表された「回顧録」はさておいて、「カレームの死」が掲載された「パリもしくは101の書」第12巻は1833年の刊行ですから、この追悼文はカレームの死(1833年1月12日)の直後に書かれたことになります。しかも書いたのはカレームの身近にいた人物。内容にもある程度信頼がおけると言って良さそうです。
というわけで、ここでもファヨの「カレームの死」に沿ってその生涯を追ってみることにしましょう。
まず、カレームの誕生にまつわるエピソードです。「カレームの死」にはこのように書かれています。
カレームはバック街のはずれの父親が働く建物で生を受けた。彼を産んだ母親はこの災難に当惑した。子どもが15人になり、父親は極度の貧困にさらされていたからだ。人生の苦痛から逃れるためか、父親はしばしば酒に溺れて粗暴な振舞いをし、そのせいで惨めな暮らしと家族に対する父親の苛立ちはますますひどくなった。
バック街はパリ左岸の中心地に近い通りで、貴族や大ブルジョワの住む大邸宅が建ち並ぶ一角です。本来は高級住宅地ですが、その南端はセーヌ河に突き当たっており、その辺りには河を運ばれてきた木材を積み降ろす作業場が点在していました。カレームが生まれたのもそんな作業場に仮設された労働者用のバラックのひとつだったかもしれません。
それはともかく、貧窮に喘いでいたカレーム一家。やがて悲惨な暮らしは頂点に達し、カレームは過酷な運命にさらされることになります。
それが、「カレームは父親に捨てられた」というあの伝説的なエピソードです。
その後さまざまな資料で幾度となくくり返されることになるこの有名なエピソードを最初に紹介したのも、やはり「カレームの死」でした。
ある日、父親は夕食前に仕事から帰ると、小さな息子を外に連れ出した。しばらくぶらぶらした後、メーヌ門に戻ってそこで夕食をとった。食事が終わると、父親は息子に家族から離れて家を出るよう諭した。「惨めな暮らしは俺たちの定めだ。このままでは死ぬしかない。世の中にはチャンスもある。知恵があればうまくやれるし、その知恵がお前にはある。さあ行け、神様がお前に下さったものを持って!」こうして幼いカレームは文字通り路上に置き去りにされたのだった。
このエピソードが事実であるという証拠は、実はありません。文筆家としてすでに名を成していたファヨが読者の受けを狙って創作した“秘話”である可能性も大いにあります。
カレーム自身も自著の中でこのエピソードについて何も語っていないのですが、ただ、彼の「パリの宮廷菓子職人(Pâtissier Royal Parisien, 1815)」の序説の中にはこんな一文があります。
貧しく家庭の庇護も受けられなかった若者が、フランスのパティスリー芸術を高めるための強い意志と研究への熱意で、有力パティシエの息子がほとんどの甘やかされた若者たちにも勝る評判と好意を受けられたことに幸福と満足を感じた・・・
幼少期のカレームが貧困に苦しんでいたことは間違いないようです。
パリの路頭で頼る人もおらずさ迷うカレーム少年。しかし、神は彼を見捨てませんでした。粗末なギャルゴット(安食堂)の主人が彼を拾ってくれたのです。
ここからカレームのパティシエ・キュイジニエとしての輝かしいキャリアが始まります。
ギャルゴットの主人をはじめ、親切な人びとに支えられてカレームはその持ち前の天分を発揮し、メキメキと頭角を現わしました。
17歳のときにパリでも長い間優れた菓子店として知られてきたビビエンヌ街のバイイに入り、その縁でタレーラン公の屋敷に出入りするようになります。タレーラン公の屋敷は昔ながらの貴族の贅を尽くした調度で飾り立てられ、そこでの仕事を通してカレームのエレガンスもどんどん磨かれていきます。彼は急速にパティシエとしての技倆を上げていったのでした。
タレーラン邸での仕事はカレームの人脈を拡げることにも繋がりました。特に、ナポレオン高官であったミュラ将軍の料理人ラギピエールとの出会いは彼に大きな影響を与え、カレームの料理への情熱の火をかき立てたのでした。
ラギピエールから料理技術を学ぶ一方で、夜や仕事の合間には科学書を読みあさり、自分が携わった料理を分析するなどレシピの整理に努めました。さらに、足しげく王立図書館に通って仕事に関係のある図書の図版を複写したのもこの頃です。
カレームの王立図書館通いについては、彼自身が著書「パティシエ・ピトレスク(Pâtissier Pittoresque, 1815)」の中で語っています。
他のパリジャン同様、私もこの偉大な首都が有している美しく、有用で、楽しみに満ちた施設に興味を抱いていた。私はいくつかの大きな建物をしばしば訪れ、そのたびに喜びを新たにしたが、中でも王立図書館は私に多大な転機をもたらしてくれた。私は、文明と、その文明をそれぞれの時代にそれぞれの国で作り上げた偉大な人びとの天才の証である不滅の名作の数々に感嘆せずにはいられなかった。こうして図書館は私のあらゆる思考の対象となり、私は開館日である火曜日と金曜日は欠かさず通ってそこで数時間を過ごしたのだった。大きな版画室はことさら私に熱い向上心を吹き込んだ。私は少しずつ生まれついての運命である虚無から抜け出し、それとともにこの新しい自然の恵みが無知にとって代わったのである。ああ、人類の叡智よ! そのときから私の中で自分を教育する気持ちが膨み始めた。
カレームはさらに、図書館通いの成果がピエス・モンテの製作に繋がったいきさつについても触れています。
私が熱心に図書館に通い始めたのは18歳のときで、そのころ私はビビエンヌ街のパティシエであるバイイ氏の店で筆頭トゥリエ(生地を扱う職人)を務めていた。私は善良なバイイ氏の思いやりを決して忘れないだろう。彼は版画室に出かけるために職場を離れるのを許してくれたばかりか、私を信頼して重要な職務を任せてくれた上、ピエス・モンテを製作するよう勧めてくれさえしたのだった。それはおそらく、私が菓子を作れなかったとしても、菓子の外観を効果的にする上でピエス・モンテのデザインが役立つと思ったからではなかろうか。初めて作った大型のピエスは出来が良さそうに見え、それは私を大いに勇気づけた。
こうしてカレームとピエス・モンテの切っても切れない関係が始まります。
カレームの仕事への熱情はすざまじいものでした。そこには妥協を許さない彼の一徹な思いが込められていたのです。
「カレームの死」にはこんな一節もあります。
誰かが彼に「それは難しいし不可能だよ」というと、彼の答はこうだった。「そんな言葉はどこかへ捨ててしまえ!」
カレームは成功した後になっても探求をやめませんでした。それどころか、より一層の高みを目指して一心に突き進んだのです。
そうしてラギピエールやラーヌ、リショー、ロベール兄弟といった錚々たる料理人のもとで修業を積んだカレームは、やがて師と仰ぐ彼らの右腕的存在となり、次々と革新的な製品を生み出していきます。