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カレームのプロフィール
■カレームの生涯(3)
執筆のかたわら、カレームはビュルテンベルク王子やバグラシオン王女、さらにはロスチャイルド男爵に仕えてその豪奢な食卓を演出しました。
特にロスチャイルド家の優雅で寛大な気風はカレームの肌に合いました。彼はそこで5年間にわたってメートル・ドテルとして働きます。
ロスチャイルド夫人の威厳のある振舞いにカレームは心を惹かれ、彼の最後の著作である「19世紀のフランス料理術(L'Art de la Cuisine Française au Dix-Neuvième Siècle, 1833)」の冒頭に献辞を捧げたほどでした。
ロスチャイルド家でのカレームの仕事ぶりについてファヨは特に言及していませんが、英国の(正確にはアイルランドの)作家であるレディー・モーガンが自らが主賓として出席していた1829年7月の晩餐会について、帰国後に出版された書物の中で詳細に記述しています。一部を紹介してみましょう。
私たちがシャンゼリゼを通ってロスチャイルド氏の美しい邸宅であるシャトー・ド・ブローニュでの晩餐会に向かったのは、魅力的な7月の夕暮れ時だった。屋敷に到着し、私たちの目的を果すために門が開かれたその瞬間から、私たちの周りを楽園が取り囲んだ……あらゆる国の上流階級の有名な人びとがとりとめもなく愉快な会話を交わすうちにもディナーの時は近づいてきていた。……ジェラールと話を交わし、ロッシーニの到着を待つ間も、私の心からはあの不滅のカレームのことが離れなかった。……カレームの料理を私はまだ経験したことがなかった。著名な実務家の知的な才能が作り上げたその技能における改良について、私はまだ判断する機会を得ていなかったのだ。「マダム、食事の用意ができました」と告げられたとき、私は心をときめかさずにはいられなかった。……晩餐のための部屋は母屋からは離れたオランジュリー(温室)の中に用意されていた。ギリシャ大理石造りの長方形のエレガントな建物で、水流を空中に放射して新鮮な気分にさせてくれる噴水があり、……その美しさともろさによってどんな貴金属より値のはる陶器には贅沢な平明さという普遍の性質が備わっていた。……もっとも繊細な肉からの精髄は科学的な正確さをもって銀の露となって抽出され、……すべての肉がそれ自身の持つ自然な香りを発し、すべての野菜がそれ自身の持つ新緑の陰を落としていた。……人間性や知識、優雅さといったものは、その味覚と節度がカレームや彼を雇用するアンフィトリオンのような哲学者の科学によって具合よく選別される人びとに属するものなのである。
しかし、この頃にはすでに病魔がカレームの身体に巣食っていました。長年にわたる苦行のような探求と不健康な作業環境での仕事が、カレームの肉体を徐々に蝕んでいたのです。
ファヨはカレームの最後の日々を次のように記していきます。
カレームの病は長く苦痛に満ちたものだったが、それでも彼の頭の中には最後まで興味深いアイディアの探求や科学的な知見が満ち溢れていた。他に抜きん出たこの人物は、ついにはベッドで論述を行なうようになった。病による耐えがたい悪寒は常にあったわけではなく、彼はベッドの上で娘に口述し、消耗すると口述を止めた。休息している間のえも言われぬ苦痛と夜の陰鬱さが彼の希望を萎えさせた。しかし、夜が明けて陽の光が戻ってくると、再び口述が始まるのだった。
そんな中でカレームは見舞いに訪れる多彩な人士たちと盛んに議論を交わしました。しかし、いよいよ最後のときがやってきます。カレームらしい、料理への執念に満ちた壮絶な最期でした。
私は最後に彼の芸術に対する情熱を感じさせる事実を書き記さなければならない。亡くなる数時間前、彼の身体はすでに麻痺し、意識を失いかけていた。……彼の精神は人びとにはすでに死んでいるように見えた。そんな状態でも、仕事に対する記憶は一瞬目覚め正気に戻ることがあるものだ。夜も更けていた。彼の最も愛する弟子の一人がやってきて彼と話をしたがった。幾つかの問いを投げかけた後で、死にかけた男は目を開き、はっきりした声でこう言った。「君か。ありがとう、良き友よ。明日、私に魚料理を届けてくれ。昨日の舌ビラメは良かったが、他の魚は良くなかった。あまり香辛料が利いていなかったぞ」。低く弱々しいがはっきりとした口調で、カレームは弟子に彼の書物の一節を思い出させた。「キャスロールをもっと揺すらなくっちゃ」。そうしてその動作を示すように右手をシーツの上で力なく動かした。それきり口を開かなかった。30分後には誰のことも判らなくなった。すべては終わったのである。
ファヨの追悼文はここで終わっています。
この臨終の場にはファヨも同席していた可能性が高く、臨場感溢れる描写はまるで実況中継のようです。
カレームは埋葬されましたが、その場所は分かっていません。ちょうどその時期にパリではコレラが大流行し、18000人もの死者が出たと言われています。街には死体が溢れかえり、埋葬する場所が足りずに一つの墓穴に何体もの遺体が一緒に埋葬されることも少なくありませんでした。そんな混乱した状況の中で、カレームの遺体もどこに埋葬されたか判らなくなってしまったのです。
料理人のセレブと称されたカレームに対してそれではあまりに失礼だというので、料理界の有志によって改めてモンマルトルに墓所が設けられたのは、20世紀もかなり経ってからのことでした。