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カレームのプロフィール
■カレームの生涯(2)
カレームはバイイの店にいた有名な菓子職人アビスについてパティスリーを学び、そのすべてを習得します。しかし、カレームはアビスの模倣では終わりませんでした。「カレームの死」の中でファヨはカレームの言葉として次のような一節を書きとめています。
やがてあらゆる技法を、しかも私独自のやり方でやり遂げることができるようになった。しかし、そこに到達するまでに一睡もしない夜を何度となくすごしたのだ! デッサンに取り掛かるのは夜の9時か10時になってからで、そのようにして夜の4分の3を作業で費やした。描き上げた絵はやがて12枚になり、24枚になり、50枚になり、100枚になり、200枚にもなった。その全てが新しいデザインだった。
満足すべき結果を確信したカレームは、次のステップに踏み出すために、涙ながらにバイイ氏のもとを離れ、ジャンドロン氏の店に移ります。そこでカレームは、エクストラの仕事に呼ばれたときにはいつでも店を離れてよいという好条件で働くことになったのです。
そしてさらに数ヵ月後、カレームはグランド・メゾンでの仕事に専念するために、パティスリーの店の雇用人という立場から完全に離れることになりました。
収入も次第に増え、このころから貧しい労働者に過ぎなかったはずのカレームの周りでは妬みの声が囁かれるようになります。
その不眠不休の労苦も知らず、単に幸運な男とみなした同業のパティシエたちからの嫉妬による非難に対して、カレームは一言も反論しませんでした。自分の仕事ぶりを見てもらえれば真実はおのずと明らかになると考えたのです。
そんな誹謗の声に耳を傾けることなく、カレームは自らの仕事をより一層の高みに導くため邁進します。
輝ける帝国の厨房で、カレームは師であるラギピエールをはじめ、ロベール兄弟やタレーラン公の総料理長のブシェのもと、目を見張るような数々の饗宴に携わって経験を積んだのです。
その仕事は12年ほど続きました。その間、カレームがもっとも熱心に仕えたのは、帝国におけるナポレオンの右腕で、最高のグルマンであったタレーラン公でした。
アンシャン・レジームの贅を極めた貴族趣味を継承するタレーランの嗜好が、カレームの料理哲学と上昇志向にぴったりフィットしたのです。
カレームは著名な料理人のリケットとともにタレーランに雇われ、外務省の大広間での晩餐のために仕事をするようになります。ここでもちょっとしたエピソードがありました。
数年後、テルジットの和約の頃にリケットがフランス料理を紹介するためにロシアに招かれた。彼の評判はきわめて高く、リケットの訪露は大きな成果を上げた。1814年の3月31日、ロシア皇帝がたまたま宿泊していたサン・フロランタンのタレーラン邸でリケットのことがちょっとした話題になった。タレーラン公が皇帝にその料理人について尋ねた。皇帝は「彼はすばらしい料理人です」と答えた。誰かがそれに付け加えた。「その通りです。閣下にお出しした料理は非常に好評でした」。皇帝がそれに応えた。「確かに。リケットは私たちに食べ方を教えてくれました。私たちは初めてそれを知ったのです」。そこでカレームが口をはさんだ。「ここに、奉公人の価値を知り、その才能に十分な敬意を払われる君主がいらっしゃいます」
カレームは1814年にプラン・デ・ベルテュで行なわれた宮廷の大饗宴に従事したあと、翌年にはイギリスの皇太子に招かれてブライトンに赴き、2年間にわたって料理長として働きます。そこでカレームはウェールズ皇太子のために毎朝メニューを書き、皇太子に料理についての知識を授けましたが、その講義は1時間にもおよびました。
イギリスでの仕事は満足のいくものでしたが、陰鬱な気候は耐えがたく、皇太子が邸宅の提供と昇給を申し出たにもかかわらず、カレームはイギリスを後にしてパリに戻り、以前やり残していた探求を再び始めたのです。
皇太子は、英国王ジョージ2世として即位したばかりの10年後にカレームを再びイギリスに招請します。
しかし、カレームは、長い時間を経ていまだにフランスの料理人のことを記憶に留めてくれていたことに感謝を示しつつも、この要請を固辞したのでした。
さて、ファヨの筆の走りはここから一気に速くなります。
私は事実を簡潔に記そうと思う。
こう書いてファヨは先を急ぎます。
彼(カレーム)はアレクサンドル1世の料理長になるという要請を受けてサンクト・ペテルスブルグへと赴いた。そこでも彼は当然輝かしい業績を上げた。だが、ロシアの寒さは彼を疲れさせた。彼はロシアを去り、名声とともにウィーンに向かった。そこで(オーストリア)皇帝のディナーのために腕をふるい、それから世界でも第一級のグルマンとして知られるステュワート英大使とともに短期間だけロンドンに行き、数週間後には書物の執筆のためにパリに戻った。
この後もカレームに対する各国首脳の要請の声は絶えませんでした。こうした声に応えてカレームはエクス・ラ・シャペルやライバック、ベローナでの会議の食卓を輝かせるために忙しい日々を送ります。ライバックでは彼を愛するロシア皇帝からダイヤモンドの指輪を下賜されます。やがて会議が一段落すると、カレームはフランスに帰国して再び執筆に取り掛かりました。