おわりに
以上ガストロノミーの誕生から発展の歴史をごくごく簡単に追ってきました。このページを締めくくるにあたって、ひとつ重大な疑問を呈さずにはいられません。それは、
ガストロノミーとは結局何だったのか?
という根本的な疑問です。
「はじめに」で紹介したサバランの定義を見ても分かるように、ガストロノミーはひとつの概念です。したがってそもそも実体がありません。その概念をいろいろな人がいろいろに解釈して、それに沿った料理を作ってきたというのが実情でしょう。であるならば、「ガストロノミーとは結局何だったのか?」という先の疑問にも明確な答えはないことになります。人によって解釈が異なるのだから、人によって答えも異なるはずだからです。
ガストロノミーはその誕生の時点ではごく一部の人だけを対象としたものでした。富裕な貴族や政府高官、大ブルジョワといった人たちです。つまり、もともと金持ち以外の一般庶民は初めから対象外だったのです。ガストロノミーは言ってみれば19世紀初頭のパリの階級社会の中で生まれ、育まれたものでした。ですから、その階級性が時代とともに崩れていくにつれて変容していかざるを得なかったわけです。
いまやガストロノミーは概念としてもきわめて曖昧なものになってしまっています。ただひとつ、生まれたときから現在まで変わらないものがあるとしたら、それはガストロノミーは貧乏人には無縁の贅沢だということくらいです。
そう、ガストロノミーは裕福な人びとが自分が裕福であることを確認するための便利な道具なのです。これだけは19世紀初頭から現在まで一貫しています。
実体がないのにどうして道具になりうるのかというと、それはガストロノミーがブランドであるからに他なりません。ブランド価値というのはそれを認める人たちの間だけで通用する貨幣のようなものです。それを共有できない人びと、望んでも与えられない人びとにとっては、それは幻に過ぎません。
しかし実は、持っている人びとにとってもガストロノミーは幻想です。なぜなら、ブランドそのものが突き詰めてみれば幻想に他ならないからです。
人は生きるために食べます。これは動かしがたい真理です。しかし、この真理はガストロノミーを礼賛する美食家には通用しません。彼らはこう主張するでしょう。「私たちは食べるために生きる」と。
こんな逆立ちのようなレトリックが成り立つのは、ガストロノミーというブランドを身に着けることで自分が経済的にも精神的にも豊かになったような気持ちになれるからです。
もう一度自分に問い直してみましょう。食べることが生きる目的になるほどの美味が、果たしてこの世に存在するでしょうか? これを食べたら死んでもいいと思えるような美味が、この世に存在するでしょうか。
確かに美味しいものはあります。でも、それを毎日毎食食べていたら一週間もしないうちに必ず美味しいとは感じなくなってしまうでしょう。絶対的な美味など存在しないのです。それでもある種の人びとがガストロノミーを手放そうとしないのは、何度もくり返しますが、それがブランドだからです。エルメスのバッグやアルマーニのスーツと同じです。美味とはいっさい関係ないのです。
ブランドものの服やアクセサリーを好んで身につけたがる人がいるように、ガストロノミーに対してもその素晴らしさを賞賛する美食家は少なくありません。そういった人びとを否定するつもりは毛頭ありませんが、一方でガストロノミーなんか関係ないという人びともたくさんいるという事実にも目をとめる必要があります。かつて階級社会の中から誕生したガストロノミーが、幾多の変容の末に逆に階級社会を生み出す要因になることだってありうるのです。ガストロノミーの恩恵に与れる富裕な人びとが無自覚無条件に礼賛すれば、必ずそうなります。
そうしたことを心に留めておくためにも、ここでガストロノミーの歴史をあらためて振り返ってみたことには大きな意味があるのではないかと思うのです。
前述のようにここで紹介したガストロノミーの歴史はごくごく大ざっぱなものです。より詳しく知りたい方は以下の書籍をどうぞ。(画像をクリックしてください)