歴史の部屋
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20世紀以降(1)

ガストロノミーの民主化
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリのガストロノミーは広い層に蔓延し、フランス料理にとってのブランドの役割を果たすようになっていました。20世紀前半は、いうなればブランドとしてのガストロノミーの確立の時代です。
  フランス革命でコルポラシオン(同業者組合)が完全に廃止された後も、料理人やパティシエの世界では昔ながらの徒弟制度が連綿と引き継がれていました。その一方でフランス社会は産業革命や資本主義経済の発展を基盤にした近代化が進んでおり、職人たちが置かれた環境も大きく変わりつつあったのです。
 それが一気に進んだのもこの時代のことでした。料理人は強烈な個性を競う代わりに互いに結束して協力し合い、組織としてブランド力の向上を目指します。その中心にいて大きな力となったのはジョセフ・ファーブルでした。優れた料理人であると同時にパティシエでもあったファーブルは、フランス料理の教育と啓蒙にも熱心で、1877年には料理人によって執筆が行なわれた最初の料理雑誌「料理の科学」を創刊し、それと連動するように1879年に「料理技術の発展のための万国同盟」という組織を結成、それはやがて現代においてもフランス料理の最も権威ある組織として有名な「フランス料理アカデミー」へと発展します。
 さらにファーブルはフランスのオート・キュイジーヌに対する一般の認知度を高める目的で「料理展覧会」を企画運営、これを成功に導いてその後盛んに行なわれるようになる料理コンクールに先鞭をつけたのでした。
 このような組織化はガストロノミーの裾野を広げ、後にフランスの属性とまで言われフランス料理の発展におおいに貢献しましたが、その一方でガストロノミーは大衆化し、かつてのような上流のごく一部の人たちがその楽しみを味わえる特権的娯楽ではなくなっていきました。
「フランス料理アカデミー」の機関誌として発行された「フランスおよび諸国の料理」には熱意に溢れる第一線のる料理人やパティシエが寄稿し、フランス料理に新しい風を吹き込むことに大きな貢献をしました。
 このように料理界が組織化され、それにともなって若い料理人の教育も系統化されるにつれ、その影響の下で実践されるガストロノミーも余分な角が削がれて平準化していくことになります。また、その地域性も広がり、かつてはパリに限定されていたガストロノミーが地方へと拡散していくのも当然の帰結でした。
 こうして平均化され特色を失ったガストロノミーを、後に料理人のレイモン・オリベは「ガストロノミーの民主化」と呼ぶことになります。

旅するガストロノーム
 地方に拡散したガストロノミーの魂に生命を吹き込んだのは、キュルノンスキーら20世紀初頭に現れた新たなガストロノームたちでした。
 キュルノンスキー(本名はモーリス・エドモン・サイヤン)は、20世紀の新技術の象徴的な存在だった自動車を駆使してフランス各地を巡り、地方の美味を積極的に発掘します。マルセル・ルフと一緒に著した「フランス・ガストロノミク」はそんな地方の美味を紹介する全28巻からなるガイドブックで、この書物によってフランス人はどんな田舎にもそれなりの美味しい食べ物があることを知ったのでした。キュルノンスキーは他にも料理に関する著書を多く著し、1927年には大手日刊紙「パリ・ソワール」が主催した読者投票でガストロノーム部門の王に選ばれています。

「フランス・ガストロノミク」ペリゴール編に掲載されたガストロノミー地図

 キュルノンスキーとの関係でもうひとつ触れておかなければならないのは、タイヤ・メーカーであるミシュラン社が1900年から発行しているガイドブック、「Guide Michelin」でしょう。フランス全土のレストランを星の数で評価することで知られるこのガイドブックは、もともとは自動車で旅行するドライバーのための観光案内書でした。ただ、その背後にはキュルノンスキーたちの活動があり、やがて地方の美味が人々の関心を集めるようになると、もっぱらレストラン・ガイドとして編集されるようになったのです。

発行100周年を記念してミシュラン社が製作した「ミシュラン・ガイド」第1号のレプリカ。

      
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