歴史の部屋
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18世紀以前(1)

美食の始まり
 動物の基本的な特質である本能の中で、食べることに対する欲望、すなわち「食欲」がもっとも本質的で差し迫ったものであることを否定する人は、おそらくいないでしょう。食べるという行為なしに、どんな動物もその生命を維持することはできません。食物を獲得する手段や方法は動物の種や生態によってさまざまだけれども、とにかく生きながらえるためには何としてでも食料を得なければならないのです。
 人間もまた動物である以上、この本能から免れることはできません。
 しかし、人間は食欲を満たすだけでは満足しませんでした。ただ飢餓をまのがれるために食べるのではなく、その中に歓びを見出そうとしたのです。これはすなわち、人間が文化的な生き物であるということの証左に他なりません。
 ガストロノミーの歴史を探るというのは、まさに人間の文化としての食の足跡を辿ることでもあります。
 人はなぜ「美味」にこだわってきたのか。また、いったいどのようにして「美味」を手に入れてきたのか。その答えにこそガストロノミーの歴史の鍵が隠されていると言えるでしょう。
 美食の始まりは歴史として残されているだけでも古代エジプトにおける王家の食卓に遡ることができます。記録としては残っていませんが、それ以前にもあったかもしれませんし、おそらくあったでしょう。いずれにしても、人ははるか太古の昔から美食に強い関心を抱いてきたのです。それは間違いありません。
 紀元2世紀ころに散文家アテナイオスによって書かれたギリシャの「食卓の賢人たち」と題された書物では、富裕者ラレンシスの宴に列席した者たちが出された料理の食材や食べ方について蘊蓄を傾け合っています。
 また、古代ローマでは、有名な「サテュリコン」の中でトリマルキオが贅を尽くした宴を開き、豪勢な料理を振舞っています。ここでは会食者たちを楽しませるための奇抜な余興さえ行なわれているのです。
 こうした食事はもはや食欲を満たすためだけに行なわれるのではなく、それ以外の要素を孕んでいることは明らかです。その要素とは何か? この後それを見ていくことになりますが、さしあたっては上記の宴がいずれも裕福な人物によって主催されていることに注目しておきましょう。

中世の食卓
 中世の時代になると、ヨーロッパの美食は次の段階に入ります。その背景にあるのはキリスト教です。
 キリスト教はヨーロッパの人びとの食生活にもさまざまな影響を及ぼしてきましたが、その最たるものが「断食」です。
 断食は聖書の次の記述に基づくもので、キリスト教でもっとも厳しい教えのひとつです。

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰り、荒野を40日の間御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。
ルカによる福音書4章1節、2節

 キリスト教の断食はさまざまな祭事に伴って頻繁に行なわれ、その期間はもっとも厳格に行なわれた中世においては年間で100日近くに及んだと言われています。つまり、1年の4分の1以上が断食期であったわけですから、人びとの暮らしに大きな影響を与えたのも無理からぬところです。
 特に、復活祭の直前の40日間(日曜日は除かれるので、実質的には46日間)にわたって実施される四旬節はキリスト教でももっとも重要な祭事のひとつであり、期間が長いこともあってヨーロッパの食文化に重大な陰を落としてきました。四旬節の始まりは必ず水曜日で、人びとが断食が始まるこの日を「灰の水曜日」と呼んだところにも、これから始まる辛い40日間に対する切ない思いが透けて見えるようです。
 断食期間中は基本的に肉を食べることができません。乳製品や卵も禁じられていました。したがって、この期間中に食べられるものは魚や野菜、果物だけ。断食期の食べ物に maigre(痩せた)という形容詞をつけ、非断食期の食べ物に gras(太った)という形容詞をつけて呼んだところにも、こんな事情が背景にあったわけです。
 この厳しい断食を耐え忍ぶために、人びとは断食と対になる仕掛けを考え出しました。それが「饗宴」です。「断食」と「饗宴」。この2つは中世の食を考える上での重要なキーワードです。
「断食」と「饗宴」はセットです。つまり、断食の前もしくは後にはかならず饗宴が開かれ、断食の辛さを緩和する役割を果たしたのです。断食はキリスト教の祭事ですから身分や貧富は関係ありません。王にも貴族にも商人にも農民にも労働者にも、分け隔てなく課された務めです。
 しかし饗宴はそうではありませんでした。なぜなら、饗宴を開くには費用がかかるからです。したがって、断食とセットで開催される饗宴の内容には必然的に貧富の差が反映されました。
 ここに、後にガストロノミーの根幹をなすオート・キュイジーヌ(高級料理)が生まれる下地があります。
 饗宴は豪華になればなるほど費用が多くかかります。これは逆に見れば、豪華な饗宴を開くことのできる主催者はそれだけ多くの富を所有しているということにもなります。たくさんの富を持つものはすなわち権力を握るものであるというのは、今も昔も変わりません。したがって、豪勢な饗宴を開くというのは時の権力者の一種のステータスでもあったのです。
 こうして贅を尽くした饗宴は勢力を誇る地域の支配者にとって自分の力を周囲に示す格好の装置としての役割を果たすようになりました。そのために王をはじめとする有力な支配者は自らの手元に大掛かりな饗宴を差配できる料理担当の家臣(écuyer de bouche)を置くようになります。また、饗宴を際立たせるためには素晴らしい料理が欠かせませんから、そんな料理を作ることのできる優秀な料理人も次々と登場しました。
 やがて、断食とセットで催されてきた饗宴は王や有力貴族たちの権勢の証しとして断食と切り離されて独立したイベントへと変化していきます。

   
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