歴史の部屋
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18世紀以前(2)

オート・キュイジーヌへ
 14世紀の終わりに一冊の料理書が世に出ます。タイトルは「ル・ビアンディエ(Le Viandier)」、著者はタイユバンことギヨーム・ティレル。
 最初に出版された当時はまだグーテンベルクが印刷機を発明する前で、当然これは手稿によるものでした。その後印刷機が発明され普及するにつれて「ル・ビアンディエ」も活字による再版がくり返されますが、それから150年が経過した1651年にはラ・バレンヌによる「フランスの料理人(Le Cuisinier françois)」が出版されて本格的な料理書の時代に入ります。扉の著者肩書きによるとバレンヌはウクセル侯爵の料理長((écuyer de cuisine)とあり、この時代には独立した職業としての宮廷料理人が成立していたことが分かります。
 バレンヌは自らの料理書の特徴を「まったく新しい料理である」と主張しています。これは、それまでの中世のフランス料理を一新した近世の料理の始まりと見ることもできますが、実際にはまだまだ中世の面影を色濃く残したものでした。
 また、この頃の料理長の地位がいかなるものであったかということについては、バレンヌと同時代のもう一人の有名な料理人、バーテルのエピソードを見れば分かります。バーテルはコンデ公の料理人(実際にはメートル・ドテルに近かったと思われます)として、ルイ14世をゲストに迎えた大掛かりな饗宴の指揮を任されましたが、参席者が予想を超えて多かったために肉が足りなくなったばかりか注文したはずの魚が届かなかったことで、大公の料理長としてあまりに不名誉なことだと考え、脇に携えた剣で自らの胸を突き刺したのでした。一介の料理人をはるかに超えたバーテルのこの強烈な自尊心! 当時の宮廷料理人がいかなる地位であったかを雄弁に物語っているのではないでしょうか。
 いずれにしても、市井の商人や農民、労働者の食生活とはまったく切り離された次元の異なる料理として、オート・キュイジーヌはごくごく狭い領域の中で形成され発達を続けていました。つまり、美食の追及は当時の社会の階級制度と密接に結びついものだったのです。
 バレンヌに続いて、18世紀までにリュヌやL.S.R.、マシャロ、ラ・シャペルといった宮廷料理人による料理書が相次いで出版され、オート・キュイジーヌは理論と実践の両面からますます強化されていきました。興味深いのは、彼らすべてが自分の書物より以前に出版された料理書を“古臭くて時代に合わない”と非難し、自分の料理こそが最新のヌーベル・キュイジーヌ(nouvelle cuisine)であると主張していたことです。これは彼ら宮廷料理人が名家の雇用人であり、料理書を出すのが雇用先を見つける競争で優位に立つための自己PRの手段でもあったことを考えてみれば、ごく自然な反応だったと言えます。そういう意味で、この時代の料理書は後の時代のカレームの料理書とは本質的に異なるものでした。

レストランの誕生
 こうしてパリのオート・キュイジーヌは著名な料理人たちがそれぞれの革新性を競う中で1789年のフランス革命を迎えます。
 フランス革命は社会に劇的な変化をもたらしましたが、その中でガストロノミーの関係でよく言われるのが次の2つのことです。

①フランス革命で大量の貴族らが処刑、追放もしくは亡命の憂き目に会ったため、そこで雇われていた料理人が失業してレストランなどに流れ、その結果オート・キュイジーヌが市井にも広まった。
②コルポラシオン(ギルド)の廃止に伴って食産業の世界に壁がなくなり、多様な食文化の発展を促した。

 この2つの要素は確かにガストロノミーの普及と発展に大きく影響しました。それは間違いありません。
 しかし、実はオート・キュイジーヌの市井への流出はフランス革命以前にすでに始まっていましたし、コルポラシオンも実質的に解体されていました。したがって、フランス革命はガストロノミー発展の絶対必要条件ではなかったのです。
 ここでフランス革命に前後して大きく飛躍したパリのレストランに注目してみましょう。
 パリで最初のレストランについては諸説がありますが、基本となるストーリーはどれも似かよっています。一例をあげてみましょう。

1765年、ルーブル宮近くのプリー街で、シャン・ドワゾーと呼ばれるひとりのブーランジェ(パン屋)が、「Venite ad me omnes, qui stomacho laboratis, et ego restaurabo vos!(胃袋に負担を感じているすべての者たちよ、我のもとに来たれ。我、汝らを癒さん)」とラテン語で書かれた看板を掲げ、「レストラン」と名づけられたスープと1人前に取り分けた羊の脛肉のホワイトソース煮を供した。
ジャン・ロベール・ピット「美食のフランス」(1991年)より

 この中の1765年という年とブーランジェという創始者に関する単語、それと看板のラテン語の文言がほぼすべての説で共通しているのです。
 共通しているのだからそれが事実だろうと思うと、そうでもないところにレストランの発祥についてのややこしいところがあるのですが、いずれにしてもレストランは18世紀の中ごろ以降に誕生し、そもそもはスープ(ブイヨン)を提供する業者であったことは間違いないようです。
 この時代にはコルポラシオンはまだ機能しており、新興のレストランが煮込み肉を販売していたことでトレトゥールが反発し、裁判沙汰になったというエピソードも語られてきました。しかし、1776年に大部分のコルポラシオンが行政命令で解散させられると、レストランがブイヨン以外の料理を提供することに何の支障もなくなり、レストランは料理を提供する場として急速に発展し始めます。
 このレストランにオート・キュイジーヌを持ち込んだのがボービリエです。後にルイ18世となるプロバンス公のメートル・ドテルであったボービリエは1782年に最初の高級レストラン「ラ・グランド・タベルヌ・ド・ロンドル」をオープン、富裕層の美食への欲求に応える外食施設として大いに人気を博しました。
 やがてフランス革命を機としてパリには新しい高級レストランが次々と生まれ、そのどれもが新たな富裕層をも巻き込んで大繁盛します。
 こうして新世紀を迎える頃には、ガストロノミー誕生の準備がすっかり整えられていたのでした。

   
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