20世紀以降(3)
20世紀のヌーベル・キュイジーヌ
エスコフィエが活躍した舞台は主に英国のロンドンでした。それ以前のユルバン・デュボワが料理長として使えたウィルヘルム1世はドイツです。考えてみれば、あのカレームにしても、復古王政期には英国やオーストリア、ロシアなど諸外国を点々としていました。また、カレームの弟子であるフランカッテリをはじめ、ユスターシュ・ウドやアレクシス・ソワイエといった名のある料理人が名声を獲得したのも、やはり英国です。
こうしたことだけを考えるならば、パリで生まれたガストロノミーは母国フランスよりもむしろ周辺諸国で花開いたと言っても良さそうに思えます。事実、ヨーロッパの先進国で高級料理といえば、それはフランス料理のことでした。
それでは、肝心のパリではガストロノミーはどうなってしまったのでしょうか?
一言で言ってしまえば、パリのガストロノミーは平準化の道を辿りました。カレームの後、パリでは抜きん出た料理人は登場しませんでしたが、だからと言って上流の人びとが贅沢な食事をやめてしまったわけではありません。パリのレストランは相変わらず隆盛を誇り、貪欲なグルマンたちの舌を喜ばせていました。
一方で、かつての宮廷貴族や高官たちが競って催していたような大饗宴は次第に影を潜め、新興の富裕なブルジョワたちによる晩餐会に取って代わられるようになっていきます。そのような晩餐会は私的なものなので格式や形式に捉われることなく、むしろ自由で気ままな雰囲気が尊重されました。この時代のガストロノミーの新たな担い手としてジャーナリストや作家、芸術家などが登場してくる背景には、まさにそうした自由な気風があったのです。
そのガストロノミーが19世紀から20世紀にかけて大きく変容したことは前項で記したとおりです。
やがて2つの大きな戦争を挟んで1960年代になると、フランスのガストロノミーは大きな転換点を迎えます。そのきっかけを作ったのはレイモン・オリベでした。1964年の東京オリンピックの際にレストラン業務を任されたオリベは、日本の懐石料理と出会い大きな影響を受けます。素材を活かした淡白な味付けと自然で美しい盛り付け。過度に濃厚でなく過度に装飾的でもないこの日本料理の真髄を応用した新しいフランス料理は、当時問題になっていた肥満と健康に悩む食道楽たちの関心を集め、たちまちブームになったのでした。
このムーブメントは当時のジャーナリズムによって「ヌーベル・キュイジーヌ」と名付けられましたが、この名称は他でもない17世紀から18世紀にかけてのラ・バレンヌやマシャロといった料理人が盛んと主張していたものです。
ポール・ボキューズやジャン・トロワグロ、ミシェル・ゲラールといったスター・シェフを生み出したこのヌーベル・キュイジーヌのブームは、しかし長続きはしませんでした。あまりにシンプルで淡白な味覚はやはりヨーロッパの伝統的な濃厚な味付けに慣れた人びとには受け容れられず、すぐに飽きられてしまったからです。このヌーベル・キュイジーヌの短所についてオリベ自身が的確な指摘をしています。
肉、魚、野菜、すべてを細かく切り刻み、ひと口大にする大流行を生み出した。短時間で煮込もうとするのだから、当然の帰結としてそうならざるを得ない。……この方法によれば一人分の材料が少なくて済む。流行はさらに突っ走って、生煮え、生焼けが氾濫した。ひと口で食べ終わってしまう肉と、その付け合せは莢いんげん2本ににんじん二切れ。
ブームの後に残ったのは少量のポーションで皿の上に芸術的にレイアウトするその盛り付け方だけでした。その後に新しいフランス料理の潮流が生まれることもなく、ブランドとしてのガストロノミーはそのブランド価値だけはそのままに次第に曖昧なものになっていったのです。