Contents
関連資料(刊行物)
▼▼▼▼ 書 籍 ▼▼▼▼
書名:L'art Cuilinaire, Groumands Célèbres, Cuisinier. Laguipierre et Carême | ||
著者:Chevalies de Cussy | 発行年:1843年 | 言語:フランス語 |
書名:France in 1829-30 Vol. II | ||
著者:Lady Morgan | 発行年:1830年 | 言語:英語 |
▼▼▼▼ 論文・コラム・エッセイ ▼▼▼▼
題名:Souvenir Ecrits Par Lui-Même | ||
筆者:Antonin Carême? | 発行年:1843年 | 言語:フランス語 |
題名:La mort de Carême(カレームの死) | ||
筆者:Frédéric Fayot | 発行年:1833年 | 言語:フランス語 |
概 要 | カレームの死の直後に発表された追悼文。著者のファヨ(Charles-Frédéric-Alfred Fayot [1797-1861])はもともと歴史を題材とする著述家でしたが、カレームの晩年に親交を結び、“カレームの秘書(secrétaire de Carême)”を名乗りました。「カレームの死」はカレームの誕生から死に至るまでの生涯をほぼ時系列に従って追ったもので、カレームが少年時に父親から捨てられたというあまりにも有名なエピソードは、実はこの追悼文によって初めて紹介されました。 テキスト版はこちら。 1833年に発行されたコラム集「パリもしくは101の書(Paris ou le livre des cent-et-un)」第12巻所収。 |
題名:Monsieur Carême, The Prince Of Cooks | ||
筆者:不明 | 発行年:1833年 | 言語:英語 |
概 要 | パリのカフェで店に掲げられた喪中の貼紙(Carte en deuil)を見て不思議に思った私(英国人)が店内で出会ったフランス人の友人にそのわけを尋ねると、その友人は「ああ、カレームが亡くなったのですよ」と答えてくれた。 という書き出しで始まる英国のコラム。ファヨの「カレームの死」とほぼ同時期に発表されたこの記事は、英語でカレームの死を伝えるものとしておそらくもっとも早いものでしょう。この出だしの後、筆者は友人からカレームの業績についての賛辞を延々と聞かされます。英国の知識人がカレームという料理人に高い関心を持っていた証拠ともいえますが、これはレディ・モーガンの影響によるものと思われます。原書は古い上に文字が小さく、とても読みやすいとはいえないのでこちらにテキスト版も用意しました。 The Court Journal誌 1833年3月16日号所収。 |
題名:Un M. Carême, Qui Se Dit | ||
筆者:不明 | 発行年:1810年 | 言語:フランス語 |
概 要 |
5日ごとに発行される新聞「Le journal des arts, des sciences et de la littérature」の1810年11月10日号に掲載されたコラム。この雑誌は名前の通り芸術や科学、文学に関する折々の話題を取り上げて解説を加えた当時流行りの知識人向け通俗紙ですが、各号の最後に「あれこれ」と題して巷で拾ったちょっとした小コラムを載せる欄があります。「カレーム氏は言う」もこの欄に掲載されたもので、ジュルナル・ド・パリ誌に挟み込まれたカレームのピエス・モンテについての宣伝ビラをネタに、下手くそな戯曲を書いたカツラ職人のアンドレ氏に対してボルテールが「アンドレ親方、カツラを作れ」と書いたように、カレームに対しても「パテを作れ」と忠告する内容です。これはもちろん上から目線に立ったジャーナリストの嫌味で、暗に「パティシエの分際で建築家気取りとはおこがましい」と非難しているわけです。 貧民から成り上がったカレームには常にこのような誹謗中傷が付きまとっていました。この非難が例外でない証拠に、ちょうど1週間後の「Mercure de France」1810年11月17日号にも同じビラを扱った同じ論調のコラムが掲載されています。 |
題名:Science Culinaire | ||
筆者:不明 | 発行年:1829年 | 言語:フランス語 |
題名:M. Carême | ||
筆者:不明 | 発行年:1828年 | 言語:フランス語 |
題名:Le fameux Carême vient de mourir | ||
筆者:不明 | 発行年:1833年 | 言語:フランス語 |
題名:Modern Cooks | ||
筆者:不明 | 発行年:1847年 | 言語:英語 |
概 要 |
英国の雑誌に発表されたこの記事は、実際のところフレデリック・ファヨの「カレームの死」を忠実になぞったもので、それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、英国でもカレームの名声が高かったということは判ります。それはたぶんレディ・モーガンの影響が大きかったのだろうと想像できますが、面白いのはこの記事の中で筆者はカレームのフルネームを“ジャン・ド・カレーム”と記していることです。これはレディ・モーガンが著作の中で“カレームの祖先は教皇レオ10世に仕えた料理人で、断食期の料理を作ることに長けていたので教皇からジャン・ド・カレームの名を授かった”と書いているのを筆者が誤って記憶していたための、明らかな勘違いです。こんな初歩的なミスを犯していることからも、筆者がカレームについて独自の情報をまったく持っていなかったことが窺えます。 「Hogg's Weekly Instructor」Vo.5(1847年)所収 テキスト版はこちら。 |
▼▼▼▼ 創 作 ▼▼▼▼
題名:Le Tartelettes du Prince Bedreddin | ||
著者:S. Henry Berthoud | 発行年:1842年 | 言語:フランス語 |
概 要 |
“La Presse”紙の1842年4月20日号および4月21日号に掲載されたカレームを主人公とする小説です。こうした新聞小説は「ロマン・フイーユトン」と呼ばれ、19世紀半ばのフランスの大衆文芸において一大ジャンルを形成しました。ジュルナル・デ・デバ紙に連載されたウジェーヌ・シューの「パリの秘密」の大ヒットに触発されてアレクサンドル・デュマが1844年からル・シエクル紙に「三銃士」を連載するなど、多くの名作がフイーユトンから生まれています。 作者のアンリ・ベルトーは1804年生まれの作家兼ジャーナリストで、フイーユトンの作者としても活躍しました。本作は、アラビアン・ナイトのよく知られた逸話を題材に、カレーム、タレーラン、カンバセレスといった面々が登場する一種のファンタジーです。その死から10年を経てもカレームの名声が衰えていなかったという何よりの証拠でもあります。 この新聞小説は1857年に出版されたベルトーの短編集「Mémoire de ma cuisinière」第1巻に収録されました。 拙訳による日本語版も用意しましたのでぜひご覧ください。 |