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関連資料(刊行物)

目 次   19世紀前半   19世紀後半   20世紀以降

▼▼▼▼ 書 籍 ▼▼▼▼

書名:L'art Cuilinaire, Groumands Célèbres, Cuisinier. Laguipierre et Carême
著者:Chevalies de Cussy発行年:1843年言語:フランス語
概 要19世紀中頃のパリで食通として知られていたド・キュッシーの料理についての論説で、「食卓の古典」に収録されました。全10章。いにしえの料理の考察に始まって、章ごとに料理のコースに見立てた構成で、最後は当時の王権であったオルレアン公の時代の料理事情までが取り上げられています。ここで注目すべきは「パティスリー」と題された第3章で、キュッシーはカレームを中心に論を組み立てていきます。カレームの死後、当代の食通たちがカレームをどう評価していたかが分かる好論です。
「食卓の古典(Les Classiques de la Table)」(1843)所収。

書名:France in 1829-30 Vol. II
著者:Lady Morgan発行年:1830年言語:英語
概 要アイルランドの作家レディ・モーガンのフランス紀行である本書の第2巻の中に、「晩餐への招待(Dinner Giving)」と題された項があり、その後半で彼女は自身が主賓として招待された1829年7月のロスチャイルド家の晩餐会について詳しく記しています。この晩餐会をメートル・ドテルとして差配したのがカレームでした。カレームの仕事ぶりをここまで詳細に記録した文章は他に例を見ません。その意味でも貴重な文献です。

▼▼▼▼ 論文・コラム・エッセイ ▼▼▼▼

題名:Souvenir Ecrits Par Lui-Même
筆者:Antonin Carême?発行年:1843年言語:フランス語
概 要「食卓の古典(Les Classiques de la Table, 1843年)」に収録されたカレームの回顧録。
私は簡潔かつ手短に語ろうと思う。
という出だしで始まるこの回顧録は、“彼自身による”と添え書きされているにもかかわらず、実際にカレームが書いたものかどうかは定かではありません。というのは、この文章が発表されたのはカレームが死んで10年もたってからのことで、しかも「食卓の古典」の編纂者は「カレームの死」を書いたファヨだからです。“カレームの秘書(書記)”もって任じていたファヨが生前のカレームから聞いていたことを書き留めて整理しなおし10年たって公表した可能性も大いにあるのです。
それはともかく、この回顧録にはカレームの誕生の逸話から帝政下での高名な料理人のもとでの修業時代、さらには自らメートル・ドテルとしてさまざまなエクストラ(大宴会)を差配した経験などがかなり細かく記述されています。惜しむらくは、最後がいかにも中途半端な点で、締めの部分で紹介される作曲家ロッシーニにまつわるエピソードもとって付けたような印象を受けます。
とは言っても、カレームが書いたにせよファヨが書いたにせよ、情報自体はカレームの記憶に基づくものであることに疑いはありませんから、そういう意味ではカレームの業績を知る上で重要な文献であることは間違いないでしょう。

題名:La mort de Carême(カレームの死)
筆者:Frédéric Fayot発行年:1833年言語:フランス語
概 要カレームの死の直後に発表された追悼文。著者のファヨ(Charles-Frédéric-Alfred Fayot [1797-1861])はもともと歴史を題材とする著述家でしたが、カレームの晩年に親交を結び、“カレームの秘書(secrétaire de Carême)”を名乗りました。「カレームの死」はカレームの誕生から死に至るまでの生涯をほぼ時系列に従って追ったもので、カレームが少年時に父親から捨てられたというあまりにも有名なエピソードは、実はこの追悼文によって初めて紹介されました。
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1833年に発行されたコラム集「パリもしくは101の書(Paris ou le livre des cent-et-un)」第12巻所収。

題名:Monsieur Carême, The Prince Of Cooks
筆者:不明発行年:1833年言語:英語
概 要パリのカフェで店に掲げられた喪中の貼紙(Carte en deuil)を見て不思議に思った私(英国人)が店内で出会ったフランス人の友人にそのわけを尋ねると、その友人は「ああ、カレームが亡くなったのですよ」と答えてくれた。
という書き出しで始まる英国のコラム。ファヨの「カレームの死」とほぼ同時期に発表されたこの記事は、英語でカレームの死を伝えるものとしておそらくもっとも早いものでしょう。この出だしの後、筆者は友人からカレームの業績についての賛辞を延々と聞かされます。英国の知識人がカレームという料理人に高い関心を持っていた証拠ともいえますが、これはレディ・モーガンの影響によるものと思われます。原書は古い上に文字が小さく、とても読みやすいとはいえないのでこちらにテキスト版も用意しました。
The Court Journal誌 1833年3月16日号所収。

題名:Un M. Carême, Qui Se Dit
筆者:不明発行年:1810年言語:フランス語
概 要 5日ごとに発行される新聞「Le journal des arts, des sciences et de la littérature」の1810年11月10日号に掲載されたコラム。この雑誌は名前の通り芸術や科学、文学に関する折々の話題を取り上げて解説を加えた当時流行りの知識人向け通俗紙ですが、各号の最後に「あれこれ」と題して巷で拾ったちょっとした小コラムを載せる欄があります。「カレーム氏は言う」もこの欄に掲載されたもので、ジュルナル・ド・パリ誌に挟み込まれたカレームのピエス・モンテについての宣伝ビラをネタに、下手くそな戯曲を書いたカツラ職人のアンドレ氏に対してボルテールが「アンドレ親方、カツラを作れ」と書いたように、カレームに対しても「パテを作れ」と忠告する内容です。これはもちろん上から目線に立ったジャーナリストの嫌味で、暗に「パティシエの分際で建築家気取りとはおこがましい」と非難しているわけです。
貧民から成り上がったカレームには常にこのような誹謗中傷が付きまとっていました。この非難が例外でない証拠に、ちょうど1週間後の「Mercure de France」1810年11月17日号にも同じビラを扱った同じ論調のコラムが掲載されています。

題名:Science Culinaire
筆者:不明発行年:1829年言語:フランス語
概 要 カレーム存命中に発表された数少ないカレーム関連の記事のひとつです。内容はカレームの著作についての批評で、この時点で出版されていた4点、「フランスのメートル・ドテル」、「パリの宮廷菓子職人」、「パリの料理人」、「パティシエ・ピトレスク」が採り上げられています。本の内容を紹介するのではなく、それぞれの書籍から読み取れるカレームの料理や菓子に対する姿勢、考え方について筆者が所感を述べるというスタイルなので、この当時のジャーナリズムがカレームをどう捉えていたかを知る手がかりとなるでしょう。
この記事でのカレームに対する評価は肯定的でも否定的でもなく、どちらかというと醒めた眼差しが感じられます。このことからもカレームに対する熱狂的ともいえる賞賛が、生前ではなく、死後に巻き起こったことが分かります。
「Le Mercure de France au Dix-Neuvième Siècle」第24巻所収

題名:M. Carême
筆者:不明発行年:1828年言語:フランス語
概 要 カレーム! この名を怖れる必要はない。ここで採り上げるのはカーニバルに続く青ざめた40日間のことではなく、生きている料理の芸術家なのだ。
という書き出しで始まるこの記事は、1828年12月23日付の「Figaro」紙に掲載されたものです。フランス語のカレーム(Carême)という単語には厳格な断食期間である「四旬節」の意味もあり、それにひっかけて料理人のカレームを紹介しているわけですが、この文章からカレームが生前のこの時点ではまだ一般的な知名度が低かったことが判ります。
これに続く記事では、カレームがリショーやロベール兄弟、ラギピエールといった高名な料理人たちのもとで修業を積み、上流社会の大饗宴で立派な仕事をするようになったプロセスを紹介しつつ、著作に手を染めていることにも触れています。全体として好意的な内容で、かつての新聞記事で見られたような非難がましい論調や揶揄めいたニュアンスは、ここでは感じられません。

題名:Le fameux Carême vient de mourir
筆者:不明発行年:1833年言語:フランス語
概 要 1833年1月16日付の「Le Figaro」紙に掲載されたカレームの死亡記事です。この欄のタイトルである「BIGARRURES」というのは“雑記”というような意味で、カレームの死が新聞で報道するに値する事がらであることを示している一方、それほどの大ニュースではないことも示しています。
短い記事なので全文と日本語訳を記しておきましょう。

Le fameux Carême vient de mourir au moment où il venait de publier nn nouvel ouvrage sur l'art culinaire, les gastronomes remarqueront comme une singularité que M. Carême est mort en carnaval.
料理術に関する新しい著作を出版したばかりの有名なカレームが亡くなった。世のガストロノームたちはカレーム氏が謝肉祭のさ中に亡くなったことを奇異に感じるだろう。

後半の文言は、フランス語の Carême に厳格な断食期である四旬節という意味もあり、その名をもった人物が羽目を外した祝宴で盛り上がる謝肉祭(カーニバル)の最中に死んだことの奇妙な符合を指摘したものです。ただし、カレームが死んだ1月12日は厳密には謝肉祭の時期ではないので、この記事には少々こじつけめいたところもあるようです。

題名:Modern Cooks
筆者:不明発行年:1847年言語:英語
概 要 英国の雑誌に発表されたこの記事は、実際のところフレデリック・ファヨの「カレームの死」を忠実になぞったもので、それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、英国でもカレームの名声が高かったということは判ります。それはたぶんレディ・モーガンの影響が大きかったのだろうと想像できますが、面白いのはこの記事の中で筆者はカレームのフルネームを“ジャン・ド・カレーム”と記していることです。これはレディ・モーガンが著作の中で“カレームの祖先は教皇レオ10世に仕えた料理人で、断食期の料理を作ることに長けていたので教皇からジャン・ド・カレームの名を授かった”と書いているのを筆者が誤って記憶していたための、明らかな勘違いです。こんな初歩的なミスを犯していることからも、筆者がカレームについて独自の情報をまったく持っていなかったことが窺えます。
「Hogg's Weekly Instructor」Vo.5(1847年)所収
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▼▼▼▼ 創 作 ▼▼▼▼

題名:Le Tartelettes du Prince Bedreddin
著者:S. Henry Berthoud発行年:1842年言語:フランス語
概 要 “La Presse”紙の1842年4月20日号および4月21日号に掲載されたカレームを主人公とする小説です。こうした新聞小説は「ロマン・フイーユトン」と呼ばれ、19世紀半ばのフランスの大衆文芸において一大ジャンルを形成しました。ジュルナル・デ・デバ紙に連載されたウジェーヌ・シューの「パリの秘密」の大ヒットに触発されてアレクサンドル・デュマが1844年からル・シエクル紙に「三銃士」を連載するなど、多くの名作がフイーユトンから生まれています。
作者のアンリ・ベルトーは1804年生まれの作家兼ジャーナリストで、フイーユトンの作者としても活躍しました。本作は、アラビアン・ナイトのよく知られた逸話を題材に、カレーム、タレーラン、カンバセレスといった面々が登場する一種のファンタジーです。その死から10年を経てもカレームの名声が衰えていなかったという何よりの証拠でもあります。
この新聞小説は1857年に出版されたベルトーの短編集「Mémoire de ma cuisinière」第1巻に収録されました。
拙訳による日本語版も用意しましたのでぜひご覧ください。

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