19世紀前半(2)
ガストロノミーの守護神たち
19世紀に入ってすぐにベルシューの詩とともに始まったガストロノミーの潮流は、その後のわずか20年ほどの間にパリはおろか英国やプロイセン(ドイツ)、オーストリア、ロシアといった列強諸国にまで広まって、ヨーロッパの食文化に大輪の花を咲かせました。
その普及の原動力となったのは前項で説明したように貴族や新興ブルジョワなど富裕層の大いなる食欲ですが、その背後にはもちろん彼らの食欲を実践面で支えた食のパイオニアたちの存在がありました。ここではそうした人材にスポットを当ててみます。
まず第一に採り上げなければいけないのは、何と言ってもグリモ・ド・ラ・レニエール(Alexandre-Balthazar-Laurent Grimod de La Reynière)でしょう。
1758年に徴税請負人の父と下級貴族出身の母との間にパリで生まれたグリモは、弁護士資格を持ち、若くして演劇評を雑誌や新聞に発表するかたわら水曜クラブ(Societé de Mercredi)などの美食を愉しむクラブにも頻繁に出入りしていました。奇行でも知られ、1783年には告別式を模したいわゆる“有名な晩餐会”を開くなどパリの社交界で話題を振りまくことも一再ならずあったと言われています。
新しい世紀になって間もない1803年にグリモは一冊の書物を出版します。「アルマナ・デ・グルマン(Le Almanach des Gourmands)」、日本語では「食通年鑑」と訳されることの多いこの書物は、文字通りグルマンによるグルマンのための一種のガイドブックでした。
「アルマナ・デ・グルマン」の第1巻の口絵「グルマンの図書室」
ここで少し寄り道をしてグルマン(Gourmand)という言葉に触れておきます。「グルマン」は日本語に訳すときに「食通」とか「美食家」、「食道楽」などという訳語が充てられることが多いのですが、これはそう単純な言葉ではありません。「グルマン」は、グリモやサバランも書いているように、もともとは「大食漢」、「大喰らい」を意味する言葉です。グルマンの行為をグルマンディーズ(gourmandise)と言いますが、フランス語で péché de gourmandise と言えば、キリスト教で厳しく戒められている「7つの大罪」のひとつである「大食の罪」のことです。ここから分かるように、グルマンはそもそもキリスト教社会であるフランスにおいて忌むべき悪徳の体現者だったのです。
しかしその一方でフランスでは太陽王と言われたルイ14世のように大食で知られそれを誇ってすらいた支配者のもとで、大食の罪は大目に見られる傾向がありました。その流れを引き継いでグルマンに積極的にポジティブな意味づけをしようとしたのが、すなわちグリモだったのです。
グリモが自著のタイトルにグルマンの言葉を入れたのにも、そうした意図が働いていたことは疑いありません。こうして「食をこよなく愛する人」という健全な意味を与えられたグルマンは、同じ時期に現れた高尚な香りに満ちたガストロノミーと手を携えて、単なる大喰らいを高級な美食家へと昇華させる役割を担ったのでした。
グリモの「アルマナ・デ・グルマン」が食欲旺盛な貴族やブルジョワなどの富裕層から絶大な支持を得られたのも、そうした背景があったからです。
グルマンの食事。これが当時のグルマンの実態だった。
左側の窓ガラスには左右逆に書かれた「Le Gacque」の文字が見える。
「Le Gacque」は当時最高級のレストラン。
もっとも、グリモの真意は実は単なる大喰らいを擁護することではありませんでした。彼はフランス革命を期に地に落ちてしまった優雅な食卓の作法を復活させようとしたのです。革命後に勢力を得た新興の金持ちは言ってみれば成金で、食の作法などお構いなしに金の力に飽かせてただむやみに食べ散らかすだけでした。アンシャン・レジームでの正統な作法を理想としていたグリモにはそれは耐え難いことだったのです。そうした成金たちに正しい作法を教え、真のグルマンへの道を示そうというのがグリモが「アルマナ・デ・グルマン」を書いた理由でした。その証拠に、「アルマナ」だけでは不十分だと感じたグリモは、1808年に正しいグルマンになるための指南書とも言うべき「アンフィトリオン(饗宴の主催者)の手引き」を出版しています。しかし、世の中はグリモの狙い通りに動いてはくれませんでした。グルマンとガストロノミーという2つの呪文で一旦解き放たれた魂は、もはや奔放で際限のない食欲を手放そうとはしなかったのです。厳格で融通の利かないグリモの主張は次第に疎まれるようになり、「アルマナ」の出版もしばしば中断した後の1812年の第8巻を最後に途切れてしまいました。第一線からの撤退を余儀なくされたグリモは、晩年を田舎に引きこもり失意のうちに生涯を閉じたのでした。
グリモが文筆でガストロノミーの普及拡大に貢献したとすると、それを実践で成し遂げたのがアントナン・カレームです。貧民上がりのカレームは、自ら認めるように幸運と努力によってフランスだけでなくヨーロッパ各国の支配層からも絶大な支持を受け、“王の料理人にして料理人の王”と呼ばれる地位にまで達しました。その生涯と業績については本資料館の「アントナン・カレームの部屋」で詳しく解説していますのでここでは繰り返しませんが、カレームがパティシエとして、またキュイジニエとしてガストロノミーという観念的な言葉に実体を与えた第一人者であることに異論はないでしょう。
そしてもう一人、ガストロノミーの裾野を広げる役割を果たした人物がいました。これは人物と言うより書物と言ったほうが良いかもしれません。ジャン・アンテルム・ブリア・サバラン(Jean Anthelme Brillat-Savarin)が著した「味覚の生理学(Physiologie du Goût, 1825年)」。出版されるやいなや食べることに熱心な自称グルマンたちから熱烈な支持を得て、大ベストセラーになった書物です。特に深い意味のある内容が記されているわけでもないこの書物が、なぜ大人気を博し、ガストロノミーの領域を拡げることができたのか? それを実現せしめた仕掛けがこの本には幾つもあります。
まず、一見して学術書か何かのような印象を与える「味覚の生理学」という書名。次に、各章に付されたいかにも哲学的な深淵に迫る内容を想起させる“メディタシオン(Méditation=瞑想)”という言葉。さらに、あたかも医学書か何かのような学術用語を駆使した衒学的な文章。そしてとどめを刺すのが巻頭に掲げられた有名な20の警句(アフォリスム)。
「あなたが何を食べているのか言ってくれれば、あなたがどんな人か言い当てましょう(Dis-moi ce que tu manges, je te dirai ce que tu es)」といった文言は、まるで食における人生の奥義を語る達人のごとき言い振りです。
こうした仕掛けは、どれもが単なる大喰らいを何とかして高尚な趣味であると言い繕おうと躍起になっていた“食いしん坊”たちの心理を見事に突いたものでした。つまりニーズを満たすものだったのです。しかしこれは、もしかするとサバランが意図的に狙った効用ではなかったのかもしれません。というのも著者自身もこの成功を予測してはいなかったと思われるからです。むしろ、自らもまた後ろめたさを抱えた食いしん坊であったサバラン自身が「味覚の生理学」のような本を必要としていた、だから自分で書いた、そういうことだったような気もします。いずれにしても、幸か不幸かサバランは自らの成功を知る前に死んでしまいました、彼が書いた食に関する書物もこれ1冊のみです。したがって、彼の真意はもはや確かめようもありません。
現代においても食の歓びを高らかに謳いあげた文学作品として評価の高い「味覚の生理学」に対して、上記はいささか辛口の論評のように思えるかもしれません。しかし、実際にこの書物が出版された当初から、サバランとその著書に対する評価はくっきりと分かれていました。たとえば“20の警句”についても、その幾つかは他の書物からの流用であると指摘されていましたし、明らかにグリモの影響が見られる文言もあります。また、カレームの弟子であったジュール・グフェは「パティシエの本(Le Livre de Pâtissier, 1872年)」という著書の中でサバランの
「人は料理人になることができる。しかし、ロースト職人は生まれつきの才能である」という言葉を引用した上で
「優れたパティシエはすぐに優れたロースト職人になれる」とサバランの文言をはっきり否定すらしました。さらにカレーム自身も、名指しこそしませんでしたが、サバランに対する批判めいた文章をいくつか残しています。後年のシャルル・モンスレに至っては著書の中で
「ブリア・サバランの考えには何ひとつまともに信ずべきものはない」とまで言い切っているくらいです。
しかしとにかく、サバランの「味覚の生理学」は大いに売れました。この書物によってガストロノミーがその意味を大きく広げて大衆化したのは紛れもない事実です。サバランは、その評価は別として、ガストロノミーの発展に確かに貢献したのでした。