19世紀前半(4)
ガストロノミーの大衆化
ベルシューが自作の詩の中で称揚し規範を示そうとしたガストロノミーが対象としていたのは、実はアンシャン・レジームでの上流階級での食卓でした。したがってそれは、いにしえの食事作法の復活を夢見ていたグリモや帝政下の高官や列強諸国の支配層の食卓を差配していたカレームにとってごく自然に受け容れることのできる理念でもありました。
しかし、大革命以降に急速に勢力を伸ばしてきた新興の富裕層が食に求める理念はそうではありません。彼らはしち面倒な作法などどうでもよく、ただ美味しいものを腹いっぱい食べ、それによって自分たちが獲得した地位と富をひけらかしたかっただけでしたから、その貪欲を包み隠す役割をガストロノミーに求めたのです。
こうしてグリモが食の表舞台から退きカレームがグランド・メゾンの華麗なオート・キュイジーヌに実直に取り組んでいる間に、ガストロノミーはあっという間に変容していきました。
その変容の象徴となったのがサバランの「味覚の生理学」の成功だったことは前項で書いたとおりですが、それではその変容とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。
カレームがガストロノミーの実践の場としていたのは、彼がエクストラと呼ぶ大饗宴でした。エクストラは単なる規模の大きい宴会ではなく、政府高官や桁外れの大富豪が主宰する半ば公的なイベントで、招待客も数百人から時には数千人規模という大掛かりなものでした。
一方で、サバランが「味覚の生理学」で対象としていたのは多くても10人程度のこじんまりとした食卓です。この程度の食卓であれば中くらいのブルジョワでも主宰することが可能でしたし、また、当時隆盛を誇ったレストランを利用することもできました。当然、そうした食卓で実践するガストロノミーはカレームが称揚するガストロノミーとは異質のものです。グリモは小規模の晩餐をもグルマンの範疇で考えていましたが、前述のように彼の食における規範は厳格で、これもサバランのガストロノミーとは異質です。したがって、サバランの成功が象徴する当時のパリの食のスタイルは誰もが気楽に享受できる娯楽の要素を強めていたのです。
ただ、誰もが享受できるといっても、そこには当然制限もありました。というのも、美食にはそれなりのコストがかかったからです。この娯楽はもとより裕福でない一般市民にとってはまったく無縁のものでした。すなわち、ガストロノミーは19世紀のパリの階級社会の最頂点に咲く色鮮やかな大輪の花だったのです。
裕福な上流階級の占有物であったというまさにその点にガストロノミーの本質があります。そして、その後の変容の根本的な要因もそこにありました。19世紀の激流の中で政治体制は何度も入れ替わり、それにつれて社会もその都度大きな変化にさらされて階級制度は次第にその姿を変えていきます。こうした変動の中で、ガストロノミーの牽引役を担ったのは復古王政以降に急速に発展したジャーナリズムでした。18世紀のメルシエやレティフ・ド・ラ・ブルトンヌの系譜に連なるジャーナリズムは、19世紀に入って出版技術の改革等の後押しもあって飛躍的に成長します。特に「アルマナ・デ・グルマン」の好評とそれに続く「味覚の生理学」の大成功に刺激されて“食”に関する出版物は大幅に増えたのです。これによって美食の概念が大きく広がりました。
一方で18世紀終わりから19世紀初めにかけて高級料理普及の一翼を担ってきたレストランはますます隆盛を誇り、ガストロノミーという流行を実践する場として少しずつ大衆化していきます。
そうしてやがて1848年の2月革命を迎える頃には、少なくともパリでは、ガストロノミーはもはや一握りの大富豪によって独占される愉しみではなくなっていました。