歴史の部屋
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19世紀前半(3)

ガストロノミーの食卓
「ガストロノミー」が出版された1801年を挟む前後10年間に、パリではさまざまな事件が起こりました。
 1794年のテルミドールのクーデターでロベスピエールら恐怖政治を推し進めた強硬派が排除され、総統政府時代に入ります。しかし1799年、ブリュメール18日のクーデターが勃発して総統政府はあっけなく潰え去り、統領政府が発足します。このクーデターの成功に軍事面で貢献したのがナポレオンでした。ナポレオンはまず第一統領に就任、さらに1804年には自らの手で冠を戴き、皇帝に即位します、第一帝政時代の幕開けです。
 フランスにおける政治・社会のこの劇的な転換は、その後のガストロノミーの展開に大きな影響を与えました。
 ナポレオンはフランス革命で否定された華やかな宮廷様式を自らの権威の象徴として復活させます。ここでそれをナポレオンの側近として支えたのが、帝国顕官大法官に任じられていたカンバセレスと外務大臣を務めていたタレーランでした。ともに貴族の出身である2人の顕官は、食に対する関心の薄いナポレオンに食卓外交の重要性を認識させ、列強の有力政治家を招いて行なわれる饗宴を頻繁に主催しました。特に、タレーランはパティシエ・バイイの雇われ人であったカレームの才能をいち早く見抜き、彼を抜擢してシェフとして大いに活用しました。カレームが今日伝わるような伝説的な料理人の座に駆け上ることができたのも、タレーランの引き立てがあったればこそです。タレーランの貴族趣味に応えるだけの技倆とセンスをもったカレームが作り上げる食卓は、まさしくガストロノミーを体現するものでした。
 一方、カンバセレスが求めた食卓は、華やかであると同時に厳格なものでもありました。そこには何よりもアンシャン・レジームの時代であったならば当然と見られていた作法が要求されたのです。これはすなわち、ガストロノミー発展のもう一人の立役者であるグリモ・ド・ラ・レニエールが理想とする食卓でした。実際にグリモは「アルマナ・デ・グルマン」の中でカンバセレスの食卓を褒めたたえています。また、カンバセレスの側近でこれも食通として知られたエーグルフイユはグリモの親しい友人で、「アルマナ」の第1巻は彼に捧げられています。
 グリモはカンバセレスを崇敬していました。これは事実です。また、タレーランに仕えていたカレームがカンバセレスを「単なる大食い」、「偽ガストロノーム」と辛辣に批判していたというのも事実です。しかし、この表面的な2つの事実から当時のナポレオンの宮廷の食卓を巡ってはタレーラン派とカンバセレス派があったと見てしまうと、それは見当違いということになるでしょう。タレーランにしてもカンバセレスにしてもその美食家ぶりが後世の話のタネになったのは、いわゆる“食卓外交”という形でともにナポレオンの外交政策に貢献したからです。ナポレオンには両者を競い争わせる意図はなく、時と場合によってうまく使い分けていました。当人同志はもちろん、周辺にいたカレームやグリモのような民間人が互いに反目し合っていたということも実際にはありませんでした。
 グリモが著書の中でカレームに触れていないのは時期から言っても当然と思われますが、カレームは「19世紀のフランス料理術」のレディ・モーガンへの献辞の中でグリモの「アルマナ」の記述を引用し大いに讃えています。実際にカレームのガストロノミーとグリモのガストロノミーは、理念と実践の両面でそれほど違ったものではありませんでした。
 それでは、サバランのガストロノミーはどうかというと、これは明らかにカレームともグリモとも次元が異なっていました。後にジュール・ジャナンが的確に言い当てたように、「食べる人というよりは薀蓄を傾ける人であった」サバランのガストロノミーは、もとより食を究める厳格な姿勢に基づくものではなく、あくまでも上流社会の人間が身につけるべきひとつの教養、さらに言うなら、自らを輝かせるための装飾品のようなものでした。だからこそ「味覚の生理学」も多くの人びとの支持を集めて大ベストセラーになることができたわけで、グリモやカレームのような正統な食卓の理念だけを追求するものであったなら決してそうはならなかったでしょう。「アルマナ・デ・グルマン」が1812年の第8巻で頓挫してグリモが田舎に引きこもる原因となったまさにその状況が、皮肉にもサバランの成功を支えていたのです。
 こうしてベルシューによって魂を与えられグリモとカレームによって肉体を与えられたガストロノミーは、サバランの成功がひとつの引き金となって誕生から30年もたたないうちに変容が始まりました。やがて1833年にカレームが没し1837年にグリモが死ぬと、厳格な食の規範であるはずのガストロノミーの意味も次第に曖昧なものとなり、後にはただ奔放な食欲だけが残ったのでした。

         
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